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『本当は、明るいも暗いも、ないかもね!』

皆さん、こんにちは♪エハンさんの対談相手で、当ブログ係きしもとタローです。
前回の報告編は長文シリーズになってしまいましたが…めげずに読破して頂いた皆さま、有難うございます。長文を読める方々の多くは、きっと時間をご自身のものにできている方々ですね。7/30予告編は、出来たら短く?書こうと思います。

◆ニュースやネットから見えてくる世の中のありさまに、度々ガッカリしてしまう人はいませんか?社会の行く末を想うと、途方に暮れたり、暗い気持ちになっちゃう人は、いませんか?人類の文明に、現代社会に、人間そのものに(ついでにこの国に)落胆し、イヤになったり愛想(あいそ)尽かしたりしている人はいませんか?

確かにこの社会は「とんでもなく未成熟」だし、そこに生きる人間も「とんでもなく未成熟」、その相変わらずの所業(しょぎょう)、その愚かさや矛盾を目にするたび、暗い気持ちになるのは仕方ないのかも知れません。

でもそうやって、すぐに「世の中にガッカリしてしまう人」や「社会の行く末を考えると、途方に暮れたり、暗い気持ちになっちゃう人」「そういう気持ちが続いてしまう人」は、要注意です。それこそが、「人間が未成熟だからこそ抱いてしまう感情」「充分な行動を起こしていないが故に体験してしまう、心の現象」だからです。

実際、そのような感情や心の現象を作り出しているのは、僕たちの周囲にある「社会の現実や現状」などではありません。僕たちの内にある「自分に対する思い上がり」「他者や社会に対する思い込み」「(普段は自覚がない)受け身な思考癖」や「関わりから逃避しようとする(他者から距離を取ろうとする)癖」が、そのような気持ちを作り出しているのです。それらの「思い上がり」や「思い込み」「思考癖」が、僕たち自身の変化・社会の変化を阻害(そがい)し、僕たちの表現や行動を阻害し、世の中の明るい部分に「出会う」機会を阻害しているのです。

普段から、社会や周囲の人々に対して積極的に関わり、実質的な「はたらきかけ」を続けようとしている人は、社会や人に対して、簡単にガッカリしたりしません。少なくとも、そういう気持ちのままで居続けることはありません。そういった状態に居続けることが実際できないのです。何故でしょうか?

それは「自ら世の中や社会に向けて行動する」…そんな「自身の行動」によって、「希望を感じさせてくれる人々に出会っているから」です。変化の先端を歩くことによって、「明るい兆しも、間近で目にしているから」です。

世の中や社会に向けて行動する人々は、次第に「社会と自分との間で、被害・加害の関係を創造しなくなります」。人間は、自らを受け手・被害者の位置に置くことで、「自分は正しい側にいる」と思い込もうとしたり、それによって問題の本質から目をそむけ、自分を守ろうとしたりする癖を持っています。世の中や社会に向けて行動する人々は、受け手のフリをしない人々、参加していないようなフリをしない人々、被害者のようなフリをしない人々、観客席・批評家席にいるような気分に陥らない人々、なのです。

社会に対して・周囲の人たちに対して、実質的に「はたらきかけることを怠っている人」ほど、世の中に対して、すぐに嘆(なげ)いたり、落胆したりしてしまいます。「はたらきかけを早々に切り上げてしまう人」や、「自分のことばかりで頭が忙しい人」は、世の中や社会に対して、すぐにガッカリして見せようとしたり、突き放した物言いをしたりしてしまうのです。世の中や社会から「ゲットするもの(貨幣、評価、愛情、権利など)」に内心ご執心な人ほど、実は世の中や社会に対して怒りや落胆を抱きやすいのです。

それは、ほぼ大半の人が経験する「人生のある時期における状態・ある段階における状態」なので、今ご自分がそうだとしても、卑下することもなければ、非難されたと思い込んで、腹を立てることもありません。みんな、そんなもんなんです。ただ、そこで「正当化」という罠にはまって行くと、なかなか抜け出せなくなるので大変です。「自分は論理的で、物事について考えられる方だ」と思っている人ほど、その罠は近くにあると考えた方が良いでしょう。

「思い上がり」は、自己防衛と逃避によって生み出されています。人間は自らの「思い上がりや怠慢」を、すぐに正当化しようとしてしまいます。口では世の中や社会について考えているようなことを言っていたとしても、行動は基本的に自分のためばかり、誰と対していても、自分の考えている事や思っている事ばかりに気を取られてしまいますから、常に心のどこかには、周囲の人々や社会を見下そうとするような意識がはたらいてしまいます。そういう状態・段階に居続けてしまうと、「世の中や周囲の人に対して、とことんまで、はたらきかけよう」という選択肢や欲求を、自らの内に、さほど持ち得なくなってしまうのです。

そんな「罠」は、僕も含めて誰もが持っているものです。多くの人々が、そういう時期を経験するものだと思います。行動しない自分、とことんまで関われない自分、実は自分のことで忙しい自分、そうやって他者を遠くに置こうとしている自分に対して、まるで言い訳をするように、「周囲の人々にはたらきかけない自分」を正当化し、「思い込みの壁を破壊してくれるような人々に出会う機会を遠ざけている自分」をも正当化してしまいます。そこを誰かに指摘されると、気分を害し腹を立て、非難されたと思い込み、そんな自分を守ろうとし、理屈をこねて反論を展開し、そんな自分に居座ろうとしてしまいます。だって、「思い上がっているのですから」…。

エスカレートすると、社会や周囲の人々に「とことん」関わり、はたらきかけてゆくことには怠慢なクセに、社会や周囲の人々を潜在的に突き放すことで「自分たちは別次元にいる」ような気分になり、それによって人や社会から自分を守ることに熱心になってしまうのです。今の世の中は、そういう状態にある人々の多くが、その状態から抜け出せなくなっています。大なり小なり、互いにそうなのに、多くの人が「自分は別」と思い込んでしまいやすいのです。

成長の過程では、人間はその時々「未成熟」であるが故に、「自分が知り得たことや、分かったことばかりに目が行ってしまい」、自分はそこそこカシコイ、それなりに判断できる(ようになってきた)、と思い込んでしまうものです。年齢は関係ありません。その状態に長く居続けると、「世の中の大半の人々よりは、自分の方がよっぽどものを考えている・よっぽど物が分かっている」と思い込むようになり、人間は次第に自他の線引きに忙しくなり、「閉鎖的な自己愛」に陥ってゆきます。

「閉鎖的な自己愛」に陥ってしまうと、ものごと・できごと・周囲の人々に対して、すぐに嘆いたり落胆したりするようになります。「閉鎖的な自己愛」故に、自分の思い込みを「やっぱりそうだよね」と認めてあげようとして、自分の思い込みを強化するような情報や知識ばかりに目が行き、思い込みを強化してくれそうな人ばかりに出会うようになり、自分でも「気が付かないうちに」、それ以外のところには目が向かないようになってしまいます。

でもそういう状態は、世の中を人間を「知り始めた」人が通る、通過点のようなものですし、誰もが、実は一旦そうなっちゃうもんじゃないかなぁ、と思います。ただ、通過点は早めに通過した方がハッピーそうですね。だって、まだまだ先がある訳ですから!

ニュースやネットを眺める度に、暗い気持ちになったり、無力を感じたり、途方に暮れたり、イヤになったりしてしまう人は、「実は自分はまだまだ、世の中や人に対して、はたらきかけることを怠っているから、明るい気持ちにさせてくれる・希望を感じさせてくれる、より多くの人々に・より多くの知識や情報に出会えないでいるんだ」…と考えてみてはいかがでしょう。究極的には物事に明るいも暗いもないのですが、両方がバランスよく見えてくるなら、少なくとも世の中にガッカリしたまま、暗い気持ちのまま、ということはなくなります。

「出会いは実力だ」とは、文化人類学者の故・西江雅之の言葉ですが…この場合の「出会い」は、出会うべく人に出会う・視野や思考を拡げてくれる人々に出会う、という意味でもあり、「出会いは創造力に比例する」「出会いは探求の深さに比例する」とも言えるでしょう(この文化編のテーマ、エハンさんが挙げた「直感」「創造性」「独立性」ともつながってきますね)。

「この世には、知らないことが、とんでもなく、いっぱいある」と本当に思っている人、「この世には、まだ出会っていない素敵な人が、いっぱいいる」と本当に思っている人は、目の前のものごとに、世の中に社会に人間に、いちいち落胆してる暇なんてありません。もちろん、時々は暗い気持ちになったりすることはあるかも知れませんが、その状態に居続けることは「できない」でしょう。だって、実際「違う方に目を向ければ、出会うべき人々や情報・知識が、そこには溢れているのですから」。

心が自分のことばかりで忙しい人は、世の中に落胆しやすく、批判的で、否定的で、攻撃的になってしまいます。それらは「反応」であり、反応にとらわれている時、人間は多くのことを「感じられなくなってしまう」ものです。感じられなくなっているから、反応に終始してしまうのです。実際、「感じられなくなっている」時、僕たちは多くのものに「出会えなくなっています」。それは実は、創造力を失っているということでもあります。

多くの人が、「気付かされる」ことは、「お誘い」であるということに、「気付けない」でいるのです。同じ場所に立っていても、人間は「見ているものが、異なっていたりする」のです。視界を開けば、ここにいながらにして、見えていなかったことが見えてくるものです。オープンになるって、そういうことです。肩を叩かれて振り向かなければ、肩を叩く強さはどんどん強くなってきます。ちょいと振り向いてみれば、オセロの白黒が引っくり返るように、世界はまるで違った姿に見えてくるものです。

照らしてくるものを想定するから、人間はこの世界に、明るい所もあれば暗い所もあると思い込むのです。そうして「照らされる者として」、光と闇の間を行ったり来たりしてしまうのです。明るいも暗いもない世界は、「照らされない」世界。つまり、「光を受ける」のではなく、自ら光を発する世界(自ら行動し表現する世界)なのです。「行動と表現の世界」からのお誘いを、断らないようにしましょう。だって「時代は開くことになった」のですから!
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報告④ 『答えを出すために、考えないでっ(?)』


第一回(4/15)「時代は開くことになりました!」報告編、会場の皆さんとの質疑応答コーナー補足シリーズも(遅くなりましたが)、いよいよ今回が締めくくりです。次回からは、第二回(7/30)の予告編を開始します。(ご興味のある方は、YouTubeでの第一回収録映像/録画安定版1~4も、あわせてご参照下さい)

※ご質問部分は、短く要約・意訳しております
※今回のは、とても長いです!3つのパートに分かれていますので、お時間のある時のどうぞ。

◆「自分の子供が、集団に今一つ馴染めないでいる。親としてはそんな子供の個性を、<それでいいんじゃないの?>と思ってあげられるが、その個性が集団の中でどう作用してゆくかは、本当に紙一重。困難に遭うかも知れないし、認めてあげることが本当に子供にとって良いことなのか、どうしても考えてしまう。」「親として、感情と思考のバランスを取るのは難しく、迷ったりブレたりしてしまう。」「モノや情報に溢れた時代。これから人間として出来上がってゆく子供たちに対し、大人として・親として・人として、どういうメッセージを出しながら接してゆけば良いと思いますか。」


1)メッセンジャー

親がこうして、悩んだり、迷ったり、ブレたり「してくれる」ことこそが、子供にとって「救い」になっていることも、あると思います。悩んだり迷ったりブレたりすることは、それ自体が悪いことではありませんしね。

かつては「子育ては、こうするもんだ」と、疑問なく言えるような時代もありました。しかし今はご存知の通り、従来の価値観が、大きく揺らいでいる時代です。学校や教育の在り方も、大きく変化しつつありますし、子供たちは、「既にこの社会で機能しなくなりつつある視点や価値観」に対して、とても敏感です。集団に馴染めないでいる子供たちは、特にそうです。

そのような子供たちは、たとえ身の回りで少数派のように見えたとしても、広い範囲で見れば、決して少なくはありません。大人や周囲に合わせて、「馴染んでいるように振る舞っているだけ」の子供たちも、沢山います。また、「問題がないように見えている子供」や、「うまくやれているように見える子供」が実際そうなのかと言うと、そうとも言い切れません。会社の中で平気な顔をして働いていても、実は平気ではない大人の方もおられるでしょう。長い時間をかけてストレスが表面化することもあります。子供だって同じことですね。

この社会では、子供でも大人でも、その時々「うまくやれてそう」だったら、「大丈夫そう・特に問題はない」と見なされ、周囲から注意を向けられにくくなります。もちろん、わざわざ問題を見つけようとする必要はありませんが、相手が子供であっても、パートナーであっても、親であっても、隣人であっても、自分自身であっても、「うまくやれてる・やれてない」というところだけで、その人の状況を「測る」クセがついてしまうと、その人から発せられる様々なサインを、ついつい見逃してしまうものです。

子供の個性について、もしくは社会と子供の関わりについて、「あれこれ考えなくてはならない状況にある」親御さんは、そんなサインに敏感にならざるを得ません。それはある意味、子供さんを通して次の時代からの兆しや導きを、「よりキャッチしやすい状況にある」ということでもあります。

学びには、人それぞれの順序や順番があり、どの部分から成熟させていくかは、人によって異なります。子供が何らかの困難を経験するとすれば、その子供は人生の早い段階で、ある部分を成熟させるきっかけを得ようとしているのではないでしょうか。個性というものは、経験によって熟してゆきますから、個性の強い子供ほど、早い段階で「学ぶべく、経験しようとする」ものです。

そして同じ経験であっても、それを「どのように体験するか」によって、その意味合いは異なってきます。子供たちにもたらされる経験は、たとえその時その時、困難なものであったとしても、近い将来「彼ら彼女らが、互いに出会う際」に、重要な意味を発揮します。「そのことに、経験的に確信を持っている大人」が、周囲にどれ位いるかによって、子供の体験は変わってくるように思います。

たとえば「大人になってから、深いところで共鳴できる人々に出会えるようになってきた」「同じような体験をしてきた人々と出会うようになった」「全く異なる経験から、同じような考え・似たような考えに至った人々に出会うようになった」という方は、案外沢山おられると思います。そのような出会いが起こったのは、「出会うための準備が、整ったから」ですね。

人生には、孤立したり、孤独を感じたりするような経験も、あるかも知れません。しかしどんな経験も「その瞬間には個人的なものとして体験するしかない」というだけで、時が経てば、その経験こそが「互いに出会うべき人々を、引き寄せ合ったりする」ものです。一つ一つの経験は、長い目で見てみると決して孤立している訳ではなく、「いまだ出会っていない人間同士が、将来出会うための準備」のようなものですね。

体験していることの「理由」なんて、その時々には誰にも分からない。しかし未来には、必ずそれらの体験の「種明かし」が用意されているものです。子供自身にも、そしてその隣で気をもむ親にも、「その瞬間には明かされることのない、人生の秘密」というものがあると思います。

その時々に「見えている範囲・分かっている範囲」で、無理やり「答えを出そう」としたり、「意味を与えよう」としたりせず、その時がいつか確実に訪れるものであるという確信を、親・大人が「経験的に」持っていることが、重要だと思います。

自分という「個」を完成させてから子供を授かる人なんて、ほぼいません。子育てに突入して、それから自身の人生を振り返り見直し、自分を「築き直してゆく」機会を与えられる人がほとんどだと思います。その時々に「どうすればよいのだろう」と立ち止まり、行動する度に「これでいいんだろうか」と悩んでしまうのは、おそらく自然なことですね。

むしろ「悩んでないフリ・迷っていないフリ・ブレないフリをしてしまう」事の方が、厄介です。「個」が完成されていない段階で子供がやって来るものですから、多くの人々は「いわゆる親・大人」に大急ぎで「なろう」としてしまいます。

このような「インスタントな変化」は、いわば「架空の成長」で、その人が持っている「思い込みをしばしば強化・加速」させたり、「漠然とした焦り」を引き起こしたりしながら、その人をいつの間にか「思考回避」状態に追い込んだりします(これは「親・大人」だけでなく、「先輩」「社会人」「プロ」「役職」「夫」「妻」など、様々なものに、急激に「ならなくては」「そう振る舞わなくては」と思った瞬間、起こりやすいことです)。

「しっかりしないと!」と思うあまり、「こうでなくてはいけない・こうしなくてはいけない・こうするべき」に、急いで合わせようとしてしまう。周囲の親・大人に仲間として認められ、受け入れられようとするあまり、「思考回避」状態に陥ってしまう(「自分で考える」ことは、しばしば、周囲の人々の共通認識や既存のパターンに疑問を投げかけることにもなり、人間は集団に属そうとする時「それぞれ個人が考えることを牽制し合う事がある」からです)。

要は、自分の考えや想いを、自分自身で充分に「深めない」うちに、「考える暇なんてない」を合言葉に、「立ち止まってなんかいられない・悩んでなんかいられない」と、互いに暗示をかけていってしまうのです。

その時々で「反射的に判断する」ことが増え、子供に対して「小さな力を行使」せざるを得ない日々が続くと、大人はついつい、「悩まなくなった・迷わなくなった・ブレなくなった」という錯覚、子育てを通して自分が「大人になった」という錯覚、「以前よりも強くなった」という錯覚を抱きやすいものです。それが子供に対して、「うまくいっているように思えたら」、周囲の親たちも同じようにしているようだったら、「何かが問題として形にならない限り」、自分自身の思考や行動のパターンには、気付くこともできなくなってしまいます。

悩んだり迷ったりブレたりするからこそ、この社会に何が起こっているのか、自分に何が起こっているのか、気付いたり考えたりすることができる、という側面もあります。子供は、時代の「メッセンジャー」のようなもので、子育ての中で度々起こる、「立ち止まらざるを得ない体験」は、大人が「錯覚という落とし穴」に落っこちる前に鳴らされる、お知らせのようなもの…なのかも知れません。錯覚に陥りそうな罠に近づいている時、子供は(もちろん、そうとは自覚せずに)「お知らせ」を鳴らし続けるように、行動に出るものではないでしょうか。


2)ゆるめるから、色々見えてくる、見えてくるから、色々考える

今の社会では、何かと人々は「強く」なりたがっています(つまりそれは「弱い」からなのですが)。しかし「強くなろうとすると、こわばってしまう」のが人間、「つよい」と「こわい」は日本語で元々同じイメージの言葉ですね(疲れて筋肉が固くなったのを、「こわい」と表現する地域もあります)。それ故に人は「強くなろう」とすると、しばしば自らを「固めようとしてしまう」ものです。

筋肉があれば強そうに見えるかも知れませんが、強い武道家になるのと、強そうに見えるボディービルダーになることは違います。

同じように、経験を通して結果的に「つよくなる」ことと、「つよくなろう・つよいと認められようとして、つよい行動をとる」ことは、全く異なります。経験を通して結果的に「しっかりする」ことと、「しっかりしよう・しっかりしていると認められようとして、それらしい行動をとる」ことは全く異なります。すごい人の言動と、すごいと思われたい人の言動には、大きな開きがあります。後者は、どこまでいってもフリですから。

もちろんフリでも、状況によっては「うまくはたらく」ことはあるかも知れません。しかしやはり、「賢い人の行動」と、「賢いと思われようとする人の行動」は異なり、「意志の強い人」と、「単に融通がきかない意固地な人」は異なります。強く見える人(見せてる人)、自分が強くなったと思い込んでいる人が、実際に強いとは限らないのです。

人間は未成熟であればあるほど、強くなりたがります。強さを持ち得ていないから、強くなりたいと願うのです。強くなろうとすると、大半の人々がその時点での知見・経験だけで自らの思考を固めようとしてしまい、「自信たっぷりに判断したり、選択したり、意見が言えたりする人」が、「大人」であるかのように思い込んでしまいます。そこで精神が「反射的にこわばり」、感性・思考・行動を「ただ固めていってしまう」人は、少なくありません。

考え方や姿勢に、「しっかりとした軸」を持ち得ることは、大人として大切なことかも知れません。しかし結果として内面に軸を持つことと、軸があるかのよう振る舞おうとすることは別です。自動車のハンドルには、極端な運転にならないように、少しばかり動く「あそび」と呼ばれるものがありますね。同じように、思考にも「あそび」を作り、ガチガチに固めないでいる方が、かえって自由がきくしコントロールしやすいものです。「あそび」と軸とは表裏一体で、適度な「あそび」が軸を保っている、とも言えるでしょう。

だから昔から、知恵のある人間は、自分の思考が固まりかけたら「知らず知らずのうちに、自身の意識に振動を与える経験を自ら得ようとします」。実際、ああかも知れないし、こうかも知れないのですから。ブレないことも立派かも知れませんが、ある意味人間は、内面を充分に熟成させるまで、何度も何度も「ブレるからこそ」、その人が見つけるべき何かを、探し続けられるのではないでしょうか。

また、「ゆるめる」と「ゆるす」は、元々同じイメージの言葉です。自身の思考をゆるめることができる人しか、自分や他者を、ゆるすことはできません。「ゆるせる」人しか、他者の中から何かを「見い出す」ことはできません。だから、「あぁ、ブレたらダメなんだ」「しっかりしなくちゃ」と思い過ぎることはありません。悩んだり迷ったりブレたりすることは、ある意味、視野を拡げ、他者をより理解するための知恵でもあるからです。

親・大人として「至らない」と思って、自らを卑下することもありませんし、「~らしく振る舞わなくては」「~だと認められなくては」と、気張ることもありませんね。その時々の身の丈でベストを尽くせば良いだけで、「今の自分の身の丈に、居座らなければ良いだけ」なのだと思います。

世の中では、実際多くの人々が「フリ」をして暮らしています。類型的で、典型的な「フリ」が出来る人、それが上手な人は、周囲の人々から「そうであるかのように」認められているかも知れません。しかしそれは、周囲の人々が、そう受け取り、そう扱うから、その人たちがそう見える、というだけの話…「意志が強そうでサッと判断ができる人」が、ただ単に「視野が狭い故に、判断が早いだけの人」だったりもします。

「色々見えない人」「色々見ようとしていない人」に限って、自分はすぐに考え、すぐに判断でき、すぐに行動できると早合点するものです。悩まない・迷わないようにしているつもりが、実は「単に深く考えられなくなっている」。色々なことが見えてきたら・色々なことを見たいと思ったら、悩んだり迷ったりするのはむしろ自然なことだと思います。

「しっかり・する」ということを、いきなり「動じないこと/ブレないこと/はっきりとした判断と態度を示せること」であるかのように捉えず、「しっかり見て/しっかり時間をかけて/しっかり考えること」と捉えた方が良いですね。「悩む・迷う・ブレる」というような表現も、できるだけ使わないようにして、「子供のこととなると、色々考えてしまう」くらいの言い方に、留めておく方が良いと思います。

言い方を工夫してみるのは大切です。「自分の状態を言い表す言葉で、人間は知らず知らずのうちに、自分を規定してしまう」ものです。「かんがえる」という言葉は、もとをただせば「か・むかう」という言葉、それはつまり「二つのものを向き合わせる」、「何かに向き合う」ということです。悩む・迷う・ブレるとは、根本的に異なる言葉です。


3)答えは、出すものじゃなくて、時間をかけて、創造してゆくもの

ここで「考える」ことと、「答え」について、「考えて」おきましょう。「答えを出すために、考える」「考えるからには、答えを出さなくてはいけない」…そう思い込んで、考え始めてしまう人は多いのではないでしょうか。

しかしそれは、「学校でやらされてきたテストのやり方が、そうだった」というだけですね。僕たちはあまりにも長い間、「問い→考え→答え」という図式に慣れ親しんできてしまいました。この図式が習慣化してしまうと、答えを出すことが目的で、答えを出すことは良いことで、早く答えを出せることや明確な答えを出せることは賢いこと…であるかのように、思い込むようになってしまいます。

答えは「思考の終着点」で、思考時間(悩んだり迷ったりする時間)が短い程、賢くて効率よくて経験豊富でクールな人のように思い込んでしまいます。その結果、多くの人が知らず知らずのうちに、「考えること(か・むかうこと)をスキップし、深く考えなくなってしまう」、「答えを出した瞬間から、それについてあまり考えなく(か・むかわなく)なってしまう」のです。

儲けることが目的になり過ぎると、次第にただの効率主義に陥り、労働時間短縮に簡易化にコストダウン、その結果世の中には安易でチープな商品ばかりが溢れます…就職が目的になり過ぎると、効率よく単位が取れてコネや内定が得られれば良いだけになり、学問の内容はどうでもよくなります…到着することだけが目的になると、停車駅は少ない方が良くて、できれば停まらないで欲しくなります…どれも同じことですね。

また人間は、答えを出そうとすることによって、「最初の問いと、自分が出した答えが、実際に結びついているかのように錯覚してしまいます」が、考えた末に出した答えが、問いに直結しているとは限りません。人間は思考する間に、「いつの間にか、問いをずらしてゆく事が往々にしてある」からです。

そして、答えを出したと思ったら「思考タイムは終わったかのように錯覚」し、それっきり考えるのをやめてしまう人も多いのですが、答えを出す(結論を出す)ために考える(か・むかう)のだとすれば、それはまるで「考えることを止めるために、答えを出そうとする」ようなもの…「向き合うのをやめるために、一時的に向き合う」ようなものになってしまいます。考える(か・むかう)とは、そういうことではないですし、一つの答えを出した気になっても、問いはどこかで持続してゆくことの方が、人生には多いものですね。

相手が子供であっても大人であっても、人と人の関係では、考える(か・むかう→向き合う)こと自体が一つの答えであり、考え続ける(か・むかい続ける→向き合い続ける)こと自体が一つの答え、その時々で「小さな答え」を出しているかのように行動しつつも、そうやって「考え(か・向かい)続ける」のが、関わりの中では答えでもあるということです。答えという結果に向かって考え、答えを出したら思考終了、それは「心の底では、考えるのはイヤ・できるだけ思考したくない・考えるのは面倒くさい、と思っている」ようなものです。

子育てはよく、「待ったなし」と表現されますが、実は「待とうとしていない」のは、子供自身でも子供が置かれた状態でもなく、「大人の思い込み」「大人が無疑問に受け継いできたシステム」の方ではないでしょうか。「待ったなし」を、「考える暇なんてない」に置き換え、あんまり「考えなく(か・むかわなく)なってしまう」ことが、世の中では習慣化しています。その都度答えを出したような気になって、そこからそれ以上「向き合わなくなる」ことが、習慣化しているという訳です。

もちろん、その時その時、小さな答えと言えるものを出さなくては、前に進めないような現実もあるでしょう。しかしそれは「便宜上の答え・とりあえずの答え」でしかなく、本当の答えではないという確認が、常に必要です。反射的な判断が続くと、本当の意味での判断力は、奪われていくものです。立ち止まる自由・じっくり考えてみる自由がいつもあり、そんな自由が創造力とつながってもいるのです。

やきもの(陶器)を作ったことのある方は「ろくろ」をご存知だと思います。グルグル回る土の塊に下手に手を出すと、形は一気に崩れてしまいますが、いつまでも触らないでいたら、陶器はできません。手を出し過ぎても、形はおかしくなっていきますし、キョロキョロ隣を見ながら真似してても、同じような物以下のものしか作ることは出来ません。

しかし不思議なもので、ちゃんと向き合って、手を添えていってやると、形は素直に、自ずから生まれてくるものですね。土の方が、手の添え方を導くようになる。もちろん、作る側の技術やイメージも大切ですが、その作り手の技術やイメージも、土の方が求め導いてゆくような側面があります。そして形ができたならば、その後は自分の手を離し、火に委ねる段階を経なくては、陶器は完成しません。

火に入れる前に出した答えが、そのまま本当の意味での答えになる訳ではない、そして実際、完成した陶器も、その後使われてゆくことで、更にその先の完成に向かう訳で、もしかしたら(小さい答えはその都度あれど)、終着点としての答えは、僕たちの生きている時間の幅を超えたところにあるのかも知れません。

「答え」というものは、自分の行動の積み上げで、「徐々に創造されてゆく」ものと言った方が良いのでしょう。子育てにおいては、その時々に出す小さな答えは便宜上のもの、本当の答えは子供の成長と共に徐々に創造されてゆくもの…そう「考えてみる」方が、良いのかも知れません。

子供の個性に関しては、それが本人にとってどうはたらいてゆくのか、人間関係の中でどうはたらいてゆくのか、なかなか簡単に予測したり判断したりできるものではありませんね。個性が形を成してゆく過程では、周囲の人間が、その都度「安直に答えを出そうとしたり意味を与えようとしたりしない」で(自分たちが描きやすいストーリーの中に子供を組み込もうとしないで)、ただ「最大の力で、眺め続けようとする」ことが、大切なのではないかと思います。そういった姿勢や行動こそが、子供へのメッセージとも言えるのでしょう。

「導くこと」「答えを出し・答えを示し・答えを与えること」だけが、親や大人の役目ではなく、子供にとっては、「親や大人が、自分に向き合い続けてくれること」「それを常に分からせてくれること」、それが一つの答えなのだと思います。特に後者の方は、親や大人の表現力にかかっています。言葉だろうが行動だろうが、「表現」というものには、人間の成熟度がストレートに表されます。親の責任というものに関して言及するなら、この「表現」を置いて、他はないのではないでしょうか。

親は、片方の手に「自分が経験してきたこと・自分が受けてきた教育」、もう片方の手に「今の社会状況や今の教育」、そして真ん中に「今の自分が持ち得ている考えや想い」を抱きながら、その間を「行ったり来たりしてしまう」ものです。そんな風に「行ったり来たりできる」という事は、今をちゃんと生きている、という事でもあり、行ったり来たりの分だけ道は踏みしめられ、その人の思慮は深くなってゆくものだと思います。

だから、親が「ああかも知れない・こうかも知れない」と迷ってくれること、「AはB」と決めつけてこないことが、子供にとっては救いになることもあると思うのです。それは大人同士の関係でも、同じことかも知れませんね。

答えを創造してゆく過程は長く、その先で「種明かし」をしてくれるのは、あれこれ責任を果たそうとしている親ではなく、未来の子供の方です。その時その時には、「起こっていることの意味」なんて、親にも子供にも、誰にもわかりません。だからこそ、「か・むかい」続ける(考え続ける)ことが大切なのでしょう。

その時々の行動が、正しかったか間違っていたかなんて、その時々には判定できないことがほとんどです。小さな答えは小さな答えでしかありません。変化というものは常にそこにあり、進行しているものなので、小さな答えを「出しているような」気持ちになることで、「考える(か・むかう)」ことが途切れてしまった時、人間は変化に後(おく)れを取り、そこから知らず知らずのうちに受け身になってしまいます。

答えを出しているような錯覚に陥らず、常に「答えを創造していく過程に自分はいる」、そう考える方が良いのでしょう。いつの日か、子供が種明かしをたずさえて、それを見せてくれる日が来ます。親や大人が、「そう確信している」ことを、子供に向かって表現し続けることが、成長を見守るということなのかも知れません。

長くなりました!それでは次回からは7月30日の予告編…またお会いしましょう。

報告③『変化を感じたら、変化の中に飛び込んで、変化そのものになりましょう!』


前回に引き続き、第一回(4/15)「時代は開くことになりました!」にお越し頂いた方々との間で交わされた、質疑応答への補足シリーズ…2回に分けてと言っておりましたが、長くなってしまい(笑)どうやら3回になりそうです。ご興味のある方は、YouTubeでの収録映像(録画安定版1~4)も、ご参照下さい。


◆「先が見えない世の中になった」「これから社会はどうなるんでしょう」「時代はどのように変わってゆくと思いますか」

これに関しては、まず『先を見ようとする発想をやめてみる』『社会がどうなってゆくのかを案ずるのではなく、どんな社会にしていきたいかを考える』『時代がどう変わってゆくのかを案ずるのではなく、どんな時代にしてゆきたいかを考える』ことを、お奨めしたいと思います。

それはつまり「先を見たいと思う気持ちは、何故わいてくるのか」「何故、誰かに未来の予測を聞いてしまうのか」、まずはそこに疑問を持ってみませんか、ということでもあります。

「先が見えない」「これから、どうなるの」という不安や関心は、本質的に「受け身な思考」から生み出されます。「世の中・社会・時代をつくっているのは、少なくとも自分ではない」「世の中・社会・時代は、自分ではない、どこかの連中がつくっている」「自分ではない、大きな力がつくっている」…そのような思い込みが、心の奥底にないでしょうか。

僕たちの中の「自分たちは受け止める側だ」という初期設定が、僕たちにそう思わせています。それこそが、僕たちの創造性を阻害しています。

社会の在り方や時代の流れ…自分たちはその影響を受け、煽りをくらい、「ある時は得をし、ある時は損をする」側にいる…そのように強力に信じ込んでいるから、「対策」を立てたがる訳です。よりよく対応するため、先を見たくなる。できれば「より知っていそうな人」や「より考えていそうな人」に、「これからどうなるか、教えて欲しい」と思ってしまう。

しかし受け止める側に立つと、人間はどうしても無力になってしまいます。
ここらあたりで、思いきって「つくる側に自分もいる」という意識を持ってみませんか。

今の時代について、「先が見えない時代だ」という印象を持っている方は、実際多いのかも知れません。しかし考えてみれば、実は「ほとんどの時代がそうだった」のではないでしょうか。ここしばらくの数十年間を振り返ってみても、ある場所で生きている人々にとっては・ある状況下で生きている人々にとっては、「ずっと先が見えない状態だった」はずです。

紛争が続いている地域、自然災害が続いている地域、社会システムが大きく変化し続けていた地域、環境が大きく変わり続けている地域。家庭環境が激変した人々、生活環境が激変した人々、人間関係が激変した人々、逃れられない状況下にあった人々、閉塞的な状況下で闘っていた人々、手探りで仕事をしてきた人々、新しい活動の中で試行錯誤を続けてきた人々。

確かに現代は、「より大きな変化・転換を迎えている」のかも知れません。しかしそれも実際には、「既に進行していた変化」が、多くの人々に見えやすくなってきた・多くの人々にとって無視できなくなってきた・多くの人々の暮らしに直接的に関わるようになってきた…というだけのことです。

変化を起こしてきた人も、変化に気付いてきた人も、変化の中を生きてきた人も、沢山いました。しかしそれをはるかに上回る膨大な数の人々が、これまで「先が見えているような気にさせられ」「誰かが見せてきたものや、どこかで見せられたものを、そのまま受け入れ、何となく鵜呑みにしてきた」。

自分たちが生きている間には、世の中そんなに変わりはしないだろうという思い込み。遠い所では様々な出来事が起こっていても、近い所ではそんな事は起こらないという思い込み。ファッションや有名人やテレビ番組はその都度入れ替わってゆくだろうけれど、社会の価値観や人生設計の形は、それ程変わらないだろうという思い込み。便利なものが増えたり、システムが少々刷新されるかも知れないけれど、暮らしはそんなに変わらないだろう、という思い込み。

自分でもそう思っていたかったから、そう思い込まされてきた。思い込むことができたから、「頑張ってこれた」。頑張り続けるために、疑問をできるだけ抱かないよう努めてきた。

僕たちはこの社会で、「活動的な消費者」として生きることを、幼い頃から叩き込まれてきています。家庭・地域・学校・社会・メディアを通して、「そうなるように常に誘導されています」。そのため、今や「貨幣というモノサシを通さないと、物事の価値を測れなくなってしまった人々」が、この社会の大半を占めるようになってしまいました。多くの人々が、経済的な問題・状況が「自分自身の財布の中身に直接関わって来るまで」、社会や時代の変化や徴候に、気付くことができなくなってしまったのです。

気付くことができたとしても、大概の人がその直観・直感を、脇に置いてしまいます。同じく幼い頃から、「自分を納得させ、思考を停止するための呪文」も叩き込まれているからです。自分で感じ、そこから知り、考え、行動することよりも、周囲の人と呼応し、同意し合い、歩調を揃え、社会の出来事を受け手側として時折話題にしながら、その話題を仲間内で共有し、「いつものやりとり」を交わすことしかできなくなっているのです。

面倒なことは考えたくない、考え出してもキリがない、自分が知ったところで何も出来ない、第一自分にはそれほど関係がない、関わると責任も生じてしまう、行動すると損するかも知れない、自分だけ損はしたくない…「自分のことで忙しい・それどころじゃないから」、そんな風に言い訳しながら、肝心の自分のことから自動的に目を逸らしてきたのではないでしょうか。

周りの大半の人々が同じように生きていたなら、疑問も湧かないし、その中で「ある程度うまく立ち回れていたら」、それに関して改めて考える事もできません。「自分にはあまり関係ないことだ」と、その都度距離を取り、いつもの「どうでもいいゲーム」に精を出してしまいます。その一方で、自分や自分を取り巻く環境に深く関わってくる「兆し」、「起こりつつある変化の兆候」を、次々に見逃してしまう。

現代社会に生きる人々は、ある一つの物語(現実)に引きずり込まれて、その中を生きています。日頃、自分の持つ権利や自分が体験する損得には敏感なのに、「その物語自体に対しては、信じ難いほど受け身」です。

「みんなで支えている」物語を、「みんなで共有している」ことによって、「みんなの中に居続けていられる」。しかしそれは視点を変えれば、「みんなで大きな穴を掘り、みんながその中から抜け出せなくなっている状況」でもあります。

人生の節目ごとに、目の前に並べられる選択肢のどれかを上手に選んでゆけば、大体「みんなと同じような、そこそこの人生」が送れる。自分自身の人生について・社会の行く末について、その程度のイメージしか持ってこなかったという方も、案外多いのではないでしょうか。

しかしそれこそが、特定の物語の中での架空の設定に過ぎないとしたら…現代という限定された時間の中、経済至上主義国家、新自由主義地域という限定された空間の中での、壮大な幻想だとしたら…膨大な数の人々が共同で描き続けていたというだけの、ただの一時的な人類の妄想だったとしたら?

幻想から目を覚ますことは、良いことではないでしょうか。それとも「自分が棺桶に入るまでは、その幻想が続いていたら良かったのに」「幻想だろうが妄想だろうが、このまま夢を見ていたかったのに」と思う人の方が多いでしょうか。


ここで、「変化」について考えてみましょう。一つの現象が形と成って、「誰の目でも確認できるようになる」までには、時間を要します。つまり「変化が確認できた」ということは、実際には「その変化が始まってから、随分時間が経っている」ということですね。

夜寝て、朝起きて、陽が高くなって庭に出たら、知らない間に庭の花のつぼみが全部咲いていた…というようなものです。「開花」は、気付いたその時よりも、ずっと前から始まっていたはずです。

明らかな状態・無視できない状態になって初めて変化を確認する人々、そしてより多くの人々と共有・同意できる状態になって初めて変化を認める人々は、「起こりつつあることに対して、常に受け身の姿勢」になっています。変化を起こす側の生き方ではなく、変化を受けとめる側の生き方になっている訳です。だから、「常に変化そのものから遅れをとってしまう」。

逆に、変化が世の中に「明確な形となって出現する」前に、その変化をとらえる人々も、少数ながらいます。そういう人々は、起こりつつある変化について気付き、気付いた瞬間からその中で行動しています。変化に気付くということは、「その瞬間から、自分もその変化の一部となる」ということで、人間は変化をとらえたその時から、変化そのものとなって、何らかの行動をせずにはいられなくなるものです。

しかし残念ながらその行動は、変化を否定したい人々、変化したくない人々によって、孤立させられてしまいます。「変化に気付く人・変化に飛び込む人・変化そのものの一部となる人」が、ある一定以上の数になるまでは。そう、不動のようにも見えていた現代社会という名の大きな物語(現実)は、ここにきて誰にとっても「どっちに展開してゆくのか、分からなくなってきています」。まるで時代そのものが、「迷っている」かのようです。当然のことながら、その物語の中で舞台に立ち、役を得ていたはずの人々・台本通りに生きていた人々も、どう立ち回ったら良いのか、分からなくなってきています。

迷っている物語自体が(膨大な数の人々によって支えられていたとはいえ)、本来「架空のもの」なのですから、依然としてその迷っている物語の中で居場所を見つけようとしていたなら、当然自分自身も迷いという架空の物語の中を生きることになってしまいます。

考えてもみて下さい。子供の頃、周囲には「社会の物語・大人や親の物語」がありましたが、皆さんは自分たちの「子供の物語」の中を、生きていたでしょう。時々大人が押しつけてくる物語よりも、自分たちにとっては現実味があって、大事な「それぞれの物語・子供たちの現実」…それはつまり、皆さんは子供の頃、「自分を取り巻く物語はさておき、自分たちも物語を描いていた」ということです。

物語を描くということは、「世間とは関係なく生きる」「周囲の人々とかけ離れた現実を生きる」という意味ではありません。世の中には様々な物語が同時進行しており、全ての物語が関わり合っているのですから。たとえば、都市の物語と田舎の物語、人間の物語と野生動物たちの物語は、同時進行していますね。しかし、都会の物語が田舎の物語を侵食し、人間の物語が野生動物たちの物語を侵食し、そこに一つの物語しかないようにな錯覚に陥ってしまったら、どうなるでしょう。一つの物語(現実)だけがあるような錯覚に陥らず、自らの物語を描く力も見失わないことが、大切なのです。

これからの僕たちに必要なのは、「先を見ようとする」ことではなく、ましてや「どうなるのか誰かに尋ねる」ことでもなく、「自ら先を描こうとする」こと。

大人の中に自分の居場所を探そうとするだけの子供が、どれだけ「生き生きできなくなるか」ご想像下さい。言われるままにしか描けなくなった子供の絵は、どんな絵になるでしょう。自分が何色を塗ればいいのか、尋ねてばかりいる子供の絵は、どんな絵でしょう。誰かの絵に色を重ねることしかできなくなった生き方・指示された色しか塗れなくなった生き方になってしまったら、なんだか残念ですよね。

色を重ねてゆくのは僕たち、それぞれが絵を描くことができます。その絵が全体で見た時に、どんな巨大な絵になるのかは、まだ誰にも分からないのです。だから、尋ねても意味はありません。それぞれの人が、自分が描きたいようにしか答えてくれないし、そのようにしか答えようがないのです。

だから、変化を感じたり、変化を見て取ったならば、いつでも遅いと思わないで、その瞬間から「自分もその変化の中にいる=つまり自分もその変化の一部」なんだと認識し、どんな世の中を描きたいか想い描き、自ら描く側になりましょう!

つづく

報告②『伝わりゃイイってもんでも、ないかもね!』

第一回エハン塾文化編「時代は開くことになりました!」では、会場の方々からも率直な意見や質問が飛び出しました。報告編②からは二回ほどに分けて、会場の方々との対話に少しばかりの補足をしてみたいと思います。ご興味のある方は、YouTubeでの収録映像(録画安定版1~4)も、ご参照下さい。

※ご意見・ご質問は(全て記載すると長くなるので)実際のものから簡略化・意訳しています。


◆「言葉(日本語)の間違った使い方」って、どんなこと?

これは、これから度々触れることになるトピックですね。僕たちは、一人で思考する時も、誰かと会話する時も、「特に意識しないで(注意を払わないで)」言葉を使っています。でもその「言葉」の、一つ一つに対する認識を深めることが、僕たちの思考や会話を「生まれ変わらせる」ことになるのだとしたら…

「自分を変えたい・今の暮らしを変えたい・このままではいけない気がする」、そんな想いをお持ちの方は多いと思いますが、「具体的に何からスタートすればいいのか、何ができるのか、ピンと来ない」という方も多いのではないでしょうか。

「普段使っている言葉を見直すこと」「言葉や言語表現に対する認識を深めること」。言葉は僕たちにとって「最も近くにある道具」の一つですから、その道具についてより知ろうとすることは、普段僕たちが「どのようにして思考を形作り、どのようにして関係を形作っているのか」を知ることでもあります。言葉は誰にとっても身近なものですから、この方法は誰にとってもスタートしやすく、大きな力を発揮するのです。

実際僕たちは、普段使っている言葉の「本来の意味や成り立ち」を、ほとんど知りません。多くの人々は「一つ一つの言葉について、知った上で使っている」のではなく、「それぞれの言葉を、どんな時にどんな風に使えば会話ができるのか、知っているだけ」なのです。僕たちは子供の頃から、周囲の人々が使う言葉や言語表現を耳にしながら、「その使い方を、真似してきただけ」なのです。でもその使い方が、根本的に間違っていたとしたら、どうでしょうか。

「使っている道具について知らないまま、その道具を使って何かを作り続けている」というのは、考えてみたら少々危なっかしいことです。たとえば子供の頃、周囲の人たちがノコギリで料理を作っていたからといって、自分もそれを真似てノコギリで料理を作るようになったら、料理はどんな風になるでしょう。周囲のみんなが当たり前のようにノコギリで料理していたら、「料理が何だかおかしいぞ」ということにも気付きにくいし、「ノコギリは料理の道具ではない」ということにも、気付けないかも知れませんね。ましてやそれが何世代にも渡ると、いつの間にか「料理はこういうもんだ」ということになって、もはや疑問も湧きにくくなります。

だからこそ「言葉の使い方を見直す」ことは、必要でもあります。知らない間に、何世代にも渡って、ノコギリで作る料理のようなものを、料理と思い込んできたのかも知れないのですから。

僕たちは、自分に関わる重要な言葉まで、「あやふや」なまま、使っています。たとえば「心、気持ち、意識、精神、考え、思い(想い)」。「自分・自我・自信・自由・自然」といった、「自」を含む言葉についても、意味や成り立ちを知って使っている人は、どれだけいるでしょう。明治以降、外国語に当てはめて使われるようになった日本語には、本来の意味とズレたまま使われているものが多く、中には全く異なる意味で使われ続けている言葉もあります。

「元の意味と違っていたって、今伝えたいことが伝えられていて、それがお互いに通じていたら、別にそれでいいじゃないか」という方も、おられるかも知れません。

「伝える・伝えない/通じる・通じない」ばかりに注目するのが、現代社会です。「知らないで使われる言葉」や「あやふやなままで使われる言葉」が、僕たち一人一人の「個人の中」で、「何を作ってしまっているのか」の方が、よっぽど重要なのです。そしてそれらを使うことによって、僕たち一人一人が「社会の中」で、「何を行き交わせているのか」に注目しないと、僕たちの社会が抱えている問題の根源は見えてきません。

伝えるとか通じるということが、一番重要なことではないのです。今の社会では、個人個人が作り上げている「思い込み」や「勘違い」、「妄想」や「不安」が、互いに伝えられ通じ合い、行き交っているのですから。

言うまでもなく、言葉は「それが指している対象そのもの」ではありません。互いの間でその対象を表し、互いの間でその「イメージ」を共有するための、便宜上の音や形…つまり記号でしかありません。山という言葉は、山そのものではありませんし、その言葉によって想起される山のイメージも、本当は人それぞれでしょう。それらは「それぞれの個人の内で描かれたイメージ」であって、「山そのもの」ではありません。

しかし人間は、言葉という記号を使って会話というやり取りをしながら、「ほぼ同じイメージを互いに交わすことができている」と思い込み、「ほぼ同じようなイメージを互いに共有できている」と思い込み、そしていつの間にか、自分たちによって共有されている(と思い込んでいる)イメージが、「山そのもの」であるかのような錯覚を抱くようになるのです。「山そのもの」よりも、自分たちの間でイメージが「伝わった」り「通じた」りする(と思われる)ことの方が、自分たちにとって重要であるかのような、勘違いをしてしまうのですね。

つまり、Cさんのことを話すAさんとBさんの間では、「Cさんそのもの」よりも、AさんBさんが勝手に描くCさんのイメージ(たとえば噂や悪口など)が、AさんとBさんの間で通じることの方が、重要であるかのようになってしまうのです。こうして言葉や会話は、「伝わったらいい」「通じたらいい」と思った瞬間、実存と妄想の逆転現象を引き起こし、「妄想であっても幻想であっても、誰かと共有できていると思えれば、それが実存・真実であるかのようにして行為に及んでしまう」…そんな人間の安直で危険な一面を、社会のアチコチで浮上させてしまうのです。

だからこそ、意味や成り立ちを知らないままで使われる言葉、深く考えないで交わされる言語表現は、本質的に「呪い」として機能してしまう場合が多いのです。それらの言葉や言語表現、それによって形作られている思い込みや妄想は、「知らず知らずのうちに」、相手や自分に作用し、相手や自分の思考・行動を、制限してしまうからです。

「そんなことしてたら、そのうち後悔するよ」「きっと泣きを見る」「そんなの無理に決まってる」「あなたのような人は…だ」等は、その代表格かも知れませんが、良い意味のように聞こえる表現や、褒め言葉なども、呪いの機能を持っていますね。たとえば「Aちゃんはすごいね、…になれるんじゃない?」等の、「良い意味だけど無責任な」持ち上げ表現等がそうです。その表現の向こう側にある呪いの機能を、本能的に察知するからこそ、「いやいや」と否定したくもなる人もいる訳で、それはその人が謙虚であるとか、ヒネているということではないのです。他者が「勝手に・安直に描いたイメージ」を、自分に投げかけてきたり、共有させようとしたりすることに、賢明な人は慎重になるということです。

他者が描くイメージ・決めつけたイメージを、自分自身のこととして受け取ることにより、そのイメージの周りを周回してしまう思考回路が、受け取った人の頭の中には自動的に作られてしまうのです。バカじゃないの・ダメだ・使えない・うざい・キモい・変なの・意味不明・暗い・弱い・情けない・子供ね…なんていうのもそうですが、すごい・才能あるね・素質あるね・天才じゃないの・賢いね・優しいね・強いね・かっこいい・若い・大人じゃん・男らしい…全てが「呪術的なはたらき」を持っています。

呪いには自覚しているものもあれば、無自覚なものもあり、ほとんどの場合、人々は無自覚に「相手にも自分にも呪いをかけてしまう」ものです。「呪いなんて、太古の昔のことだ」なんて思っている方もおられるかも知れませんが、実際、現代社会でも相変わらず呪いは行き交っています。

たとえば「自分に負けるな」等は、あまりにも便利使いされている言語表現ですが、自分という言葉に関しても、勝ち負けという言語表現に関しても、あまり考えないまま使っている人が多いですね。使っている人を目にして、その「使い方」だけを学習してしまうからです。「自」「分」を、更に「強い自分」や「弱い自分」、「ポジティブな自分」や「ネガティブな自分」、「愛されるべき自分」や「ダメな自分」に分け、そこで勝ち負けを創り出そうとしている人は、小さな「自分」の中で、一体何のゲームをしているのでしょうか。

「使い慣れている言語表現」「慣れ親しんでいる、便利な言い回し」ほど、要注意です。それらは、本来の意味を離れて機能しているものがほとんどだからです。使っているものから自由にならずして、自由にはなり得ません。言葉や言語表現を意識せずに使っている人々は、(自分自身や相手の)言葉や言語表現に、踊らされてもいるということです。

また多くの人々は、言語表現に含まれているトリックについて、あまり日頃気にしていません。たとえば「目的・手段」「勝ち・負け」「自信がある・ない」といった言葉表現は、セットになり、対義語のように使われています。しかし実はそれらは、「対していない」のです(これらについては、後の講座で話が出ると思います)。対していないものを、対しているかのように使い続けたら、僕たちの思考・互いの関係・僕たちをとりまく社会環境は、どのようなものになるでしょう。

自覚していようが、していなかろうが、言葉・言語をはじめとする表現は、僕たちの思考・関係・社会環境を、文字通り創造しています。「そのことを認識しないまま、使い続ける」ということ、それ自体が、本当は言葉の間違った使い方なのかも知れません。言葉という道具を見直し、使い方を変えることは、そのまま、個人の「創造力」や、社会の「創造力」を、生まれ変わらせることでもあるのではないでしょうか。

報告①『今の自分の状態で出てくる答えなんて…本当の答えじゃないかもね!』

エハン塾文化編スタートの日をはさみ、九州では大きな災害が起こりました。被災地の方々に一刻も早く安らぎが訪れますよう、全ての選択が人命第一で為されますよう、祈念致します。

★『時代は開くことになりました』第一弾は、無事終了致しました。お越し頂いた皆さま、有難うございます。これから何回かに分けて、この“報告編”で4月15日初回のご報告をさせて頂きます。…結構、長いです(笑)

さて…今回の講義(対談)、午前・午後の4つの時間は、それぞれ①「時代は開くことになりましたってどういうこと?」②「私たちの関係を一変させる、先人たちからの暗号」③「“ICI”とは~直感・創造力・独立性」④「感じることが世界を変える~文化とは何か?」と名付けられておりましたが、其々の中身に関しては特に決めないで、「当日のその場の空気」で進めよう、ということになっておりました。

そのため、4本の木の間を鳥が飛びまわるように…4つのテーマの間をエハンさんと僕でピョイピョイと飛びまわる、ある意味春らしい?対談になりました。お越し下さった皆さんとのやり取りも含め、対談はとても楽しいものでしたが、僕個人的には反省点も多々ありました。

講演や講義などを一人でやる時は、会場の大半の方が内容を呑み込めるよう、一つ一つのトピックについて、丁寧に時間をかけて話してゆくのですが、今回は対談…しかも対談の相手は、あれこれ言わなくても、すぐに「ピ~ン」と来ちゃうエハンさん。会場にお越しの皆さんがいることを前提に話は進めていましたが、二人の間ではすぐに通じてしまう事もあり、後から考えたら「大事なことを言わないまま、説明しきらないまま、話を進めてしまったかも」という反省が、僕にはありました。エハンさん、みなさん、ごめんなさい(><)!対談という中で、一つ一つのトピックを「結んでゆく」ことは、簡単ではありませんね~。

さて、少し不思議な話かも知れませんが…僕の中に、幾つものスイッチ・ボタンがあるとします。それらは、話題・知識・情報のボタンで、Aについての話題、Bについての知識、Cについての情報…といった具合に、無数に分かれて並んでいる訳です。誰かと向かい合うと、その人から「見えない手」が何本も僕の方に伸びてきて、ボタンがどんどん押されていきます。すると僕は自動装置のように、それぞれの話を喋っていく。

ボタンを押す人は、自分が「知りたい」ことが何かを、実は潜在的には「既に知っており」、その知りたいことに通じる可能性がある話題・知識・情報を持っている人に会うと、特に「自覚しないで」、見えない手をその人のボタンに向かって伸ばすのです。だから「わざわざ声に出して質問した訳でもないのに」、目の前の人が「自分が興味を持っていたようなこと」を喋り出す…というような現象が起きるのですね。

ところが、あのような大勢の人が集まる場・しかも普遍的なテーマを扱う場では、「ボタンを押す見えない手」は、あちらこちらから伸びて折り重なり合い、複雑な軌跡を描きながら、その場を行き交います。そこに居る人数よりもずっと多い「見えない手」が、僕やエハンさんの間でも、僕やエハンさんに向かっても、伸びている。

自分がなぜ、そのことを話し始めたのか…どこの誰から伸びてきた手が、ボタンを押したのか…一体幾つ同時に押されているのか。いちいち考えられないくらい、次から次へと押されてゆくような感覚の中で、まるでその場が巨大な一つの脳になって、その中で電気信号が行き交い、シナプスがつながっていくのを、脳の中の一つの細胞からリアルタイムで観察しているみたいになりました。

会場には、知識欲が旺盛な人々が集まっていたのかも知れません。終わった瞬間、僕が「知っていること」や、僕という人間を形成している個人的経験については、幾つか話したものの…「その知識・経験によって僕が持ち得ているアイディア」のようなものについては、皆さんにあまり提供できないまま終わってしまったような印象がありました。実はそういう話をしそうになった際、別のボタンの方が連打されているような感覚がずっとしていたからです。「音楽の話」や「ことばのカラクリ」と言えるものについては、ほとんど触れませんでしたが、これはまた、別の機会にしろということなのかな、と思っております。

また、言葉というのは常に普遍的な状態に在るものではなく、会話する人間たちの意識状態によって意味が変わったり、意味を為さなくなったり、場合によっては特定の言葉に関しては、使う必要がなくなったりもします。多くの人々がいる所で話す時は、その場にいる人々の意識状態の、「平均値」「最大共有域」に合わせて、言葉が選ばれたりするのです。つまり、特定の二人が二人だけで話す時と、そこに他の誰かがいる時で、選ばれる言葉も、その言葉の意味も、その言葉の深度も、変わってくるということですね。むしろそれが自然と言えるかも知れません。

人が集まる際、大体近い意識状態の人々が集まることが多く、その場合、言葉はむしろ選びやすいものなのですが、今回のこの文化編、興味深いことに「普段、疑問に感じていること」や「求めている知識」が、とても近い人々が集まっているものの、会場の意識状態は様々で、その幅は、僕の経験的にも大きいように感じました。そのため、言葉を選ぶのには少し難しさを感じていました。

それにしても、エハンさんの旅の話や、冒険談・体験談は、まだまだ面白そうでしたね!文化というのは、人間一人一人の内で培われてきたものであり、その人の経験、生きている環境や地域、普段の暮らしや時間の過ごし方、人間関係が、「映し出されているもの」です。その人を「より知る」ことで、その人の言葉も「より意味を為してくる」ものですね。文化力とは、「映し出されているもの」を通じて、「そこに何が映し出されているかを読み解くこと」でもあると思います。


ところで皆さんにとって、「講演」や「講義」に行く意味とは何でしょう?「情報や知識を得たい」というだけなら、分かりやすく整理されてまとめられた文章や本を、自分のペースで読む方が良いのかも知れませんし、今回のような企画なら、後で映像を見たりもできますから、シンプルに「情報や知識を得たい」というだけなら、わざわざお金を払って講演や講義に出向かなくても良いのかも知れません。

僕は「講演や講義に行く」というのはズバリ、「人に直に会う」「その空気に触れる・含まれる」ということではないか、と思います。「文言による知の経験」だけではなく、「身体全体を通した知の経験」。旅行雑誌の写真や映像を眺めるのと、実際にその空気の中に行くことは、おそらく想像する以上の違いがあります。コンサートと録音物などもそうでしょうね。実際の絵画と、それらが小さく印刷された図録を見るのも、随分異なります。

また、「新しい情報」や「知識」、何か「ヒントや答え」のようなものを求めて、こういった講演に来られる方もおられるでしょう。当日参加費を払って来られる方には、それなりの満足や納得、成果や手応えを持って帰って頂けることも大切だと思います。しかし一方で皆さんご存知の通り、エハン塾は普段から「答えを求めるのではなく、自分で考える」ことを提案し、「全ての人々を消費者にしてしまう、現代社会のシステムに対するアンチテーゼ」を発してもいます。エハンさん自身、禅の公案か謎かけのようにして、様々な問題提起をされたりもします。その中には実は、「今の自分の状態で、簡単に答えを出すな」というメッセージもあるのではないでしょうか。

その場で何らかの結論や答えが「提供」され、「持ち帰る」ことができないと、「買い物した気になれない」人もいるかも知れません。「思うようなもの」が得られなければ、「得したと思えない」人も多いかも知れません。しかしこの社会の「習わし」の中で意味や価値を高めようとして、「答えのようなものを提供」し、「満足を与えようとする」ことで、このような講演が結局、「依存促進」や「思考停止」、「消費的習慣の持続」を導くものになってしまったら、それこそ矛盾、それこそ残念ですよね。

だから…

すぐ出てくる答なんて、答じゃないかもよ!
これが答えですなんて言われても、有り難がってる場合じゃないかもよ!
何じゃこりゃ、と思うものの向こう側に、導かれている世界があるかもよ!

という訳で。

「この社会」の中で発案され、「この社会」で企画運営されていながら、それでも「商売でもなく」「サービスでもなく」、出会った人々が様々なことを考え始め、多くの引っ掛かりや、場合によってはモヤモヤまでもを持ち帰り、そしてまたお互いに会いたくなるような、そんな面白い「会合」…そんな文化を、「つくって」ゆきたいものですね!

つづく

プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『エハン塾』文化編

「エハン塾」は、“独立個人"をキーワードに、「自分で知り、自分で考え、自分で行動する」精神の人々を育てるべく、世界規模での様々な情報や知識を発信・シェアする、新しいタイプの私塾です。

ユニークでパワフルな語りが人気のエハン・デラヴィ氏は、スコットランド生まれ。40年に及ぶ日本在住の彼は日本文化や東洋思想にも造詣が深く、この私塾でとりあげるテーマも、科学・歴史・宗教・政治…と、広範囲に及びます。

2016年春に、エハン氏の第二の故郷でもある京都でスタートした「エハン塾文化編」は、エハン氏の友人、音楽家でありながら幅広い人間・文化研究と演奏・講演活動を続ける、きしもとタロー氏をゲストに、「文化」に焦点をあてながら、これまでの塾の内容をより身近なものへと広げ、私たちが「既に突入している」新しい時代を生きるための、実践的で革命的なアイディアを、様々な角度から提供することを目指しています。

この私塾は、様々な地を巡り、出会いと縁をつなぐ、一つの大きな「船」。時代を自由に旅するこの船に、あなたも乗船しませんか?

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