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「世界とあなたを、エネルギーで感じ始める日」

予告編…春のスペシャル対談企画!

◆皆さま、お久しぶりです。テトラーダ企画第一弾から少し間が開いてしまいましたが、この春、ついに第二弾を開催いたします。久しぶりの対談企画…題しまして“世界とあなたを、エネルギーで感じ始める日”

近くにいるだけで何だか心地良く感じる人がいたり、逆に近寄っただけで何だか馴染めないものを感じる人がいたり、会議なんかで誰かがピリピリしてたら何となくそれが周りに波及したり、落ち込んでいたのに元気な友人に会ったら何となく自分も元気になったり…そんなことが日々の暮らしの中にありませんか?

未だ解明されていないエネルギーが、実は宇宙の大半を占めている…ということが近年科学的にも実証されつつありますが、その宇宙とは、夜空の向こうの、私たちが行ったこともない空間だけを指しているのではありません。宇宙には当然、私たちの暮らすこの地上世界も含まれており、私たち自身も、そして私たちのお互いの間も、まだ解明されていないエネルギーで満ちている、という訳です。私たちが見たり聞いたり触れたりして認識し、互いに確認し合い、納得し合い、社会の中で当たり前のように思っているものって、「本当にそこにあるもの」のうちの、ほんの一部でしかないということです。

そもそも、エネルギーって、どういうものなんでしょう?「あの人はエネルギーがある」とか「エネルギー切れちゃった」なんて、何気なく私たちは口にしていますが、私たちはその「エネルギー」を、どんな風にして感じたり確かめたりしているのでしょうか?

今回の「時代は開くことになりました!~春のスペシャル対談企画~」では、早くからエネルギー療法に着目し、治療家・セラピストとして活躍する中、「メディカルレイキ統合医療学会」を立ち上げ、医学・科学・教育と、様々な専門家・研究者とチームを組みながら、実証的な研究を重ねて来られた、龍光路浩子(りゅうこうじひろこ、本名:大村浩子)さんを迎え、「感じることって、どういうこと?」「それまで感じ得なかったものを感じ始めたら、生き方はどんな風に変化するの?」ということについて、一緒にお話をしたいと思います。

浩子さんとのお話は、本当の意味で「音楽について語ること」と、とても近いものになるのではないか、と思います。表現したり、それを互いに読み取り合ったり、そこから関わりを創造していくということについて、身近なところから様々なヒント見いだして行く…そんなお話にしたいと思います。

私たちは、空気の中で生きていますが、空気は私たちの目には見えません。自らの身体を通る空気(息/いき)によって「いき(生き)」ているにも関わらず、私たちは特にそれらを意識しないまま、暮らしています。それと同じく、私たちはありとあらゆるエネルギーの中に生きていますが、その大半を、私たちは観察できないまま暮らしています。「それらによって生かされている」にも関わらず、それらを意識することすら、日常的には稀です。

「そんなの、本当にあるのかどうか、わからない」「一部の人だけが、見えるとか感じるとか、言ってるだけじゃないの?」「自分はそういうの、鈍感な方だし、感じない方だから」「誰か(世の中の大半の人々が賛同してくれるような人)が証明してくれるなら、信じてもいいけど」…そんな声も聞こえてきそうですね。

でももし、そんなエネルギーを、あなた自身も「感じることができる」としたら?経験として確かめることができるとしたら?それらを観察し、他の人たちと確かめ合える手立てがあるとしたら?これまで意識していなかったエネルギー、自分自身や目の前の人を「その人たらしめている」エネルギー、お互いの間を行き交い、この世界を行き交い、この世界を形作っているエネルギー、それらを「感じることができる」としたら?私たちの、自身の捉え方や、私たちの社会での関わりは、どんな風に変わってくるでしょうか?

これは、この「時代は開くことになりました!」で、何度もとりあげてきたテーマでもありますね。前述しましたように私たちは、目の前の人のことも、そして自分自身のことも、その間に満ちているものについても、実はほとんど認識できていません。私たちの人生は、まるで目を細めながら歩いているようなものです。そこにある多くのものにも気付かず、まるで通り過ぎるかのようにして日々を過ごし、すぐそこに迫っているものに気付かず、ブチ当たったり蹴つまづいたりしながら、多くの人が年月を重ねてしまいます。「互いに視界を狭めあっている」ことに気付かないまま、関係をつくり、社会をつくり、それらをそのまま持続させてしまっているのです。

でも、もうこれからは違います。ご存じのように「時代は開くことになりました」から!

皆さん、お待ちしております!


◆日時:4月8日(土曜日) 15時~18時(休憩有)

◆場所:オーガニック・ハウス・サルーテ 2階
     京都市下京区東塩小路町600-31
     ※京都駅から北へ徒歩5分

◆出演:きしもとタロー、龍光路浩子、テトラーダ・メンバー

◆参加費:3000円(サルーテのケーキとお茶付き)
  ※追加注文もできます♪
  ※講演終了後、サルーテで夕飯&親睦会があります。
    実費でのご参加となりますが、ご希望の方は是非残って夕飯をご一緒しましょう。

◆お問い合わせ:tetrada1111@gmail.com テトラーダ事務局 鈴木
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『本当は、明るいも暗いも、ないかもね!』

皆さん、こんにちは♪エハンさんの対談相手で、当ブログ係きしもとタローです。
前回の報告編は長文シリーズになってしまいましたが…めげずに読破して頂いた皆さま、有難うございます。長文を読める方々の多くは、きっと時間をご自身のものにできている方々ですね。7/30予告編は、出来たら短く?書こうと思います。

◆ニュースやネットから見えてくる世の中のありさまに、度々ガッカリしてしまう人はいませんか?社会の行く末を想うと、途方に暮れたり、暗い気持ちになっちゃう人は、いませんか?人類の文明に、現代社会に、人間そのものに(ついでにこの国に)落胆し、イヤになったり愛想(あいそ)尽かしたりしている人はいませんか?

確かにこの社会は「とんでもなく未成熟」だし、そこに生きる人間も「とんでもなく未成熟」、その相変わらずの所業(しょぎょう)、その愚かさや矛盾を目にするたび、暗い気持ちになるのは仕方ないのかも知れません。

でもそうやって、すぐに「世の中にガッカリしてしまう人」や「社会の行く末を考えると、途方に暮れたり、暗い気持ちになっちゃう人」「そういう気持ちが続いてしまう人」は、要注意です。それこそが、「人間が未成熟だからこそ抱いてしまう感情」「充分な行動を起こしていないが故に体験してしまう、心の現象」だからです。

実際、そのような感情や心の現象を作り出しているのは、僕たちの周囲にある「社会の現実や現状」などではありません。僕たちの内にある「自分に対する思い上がり」「他者や社会に対する思い込み」「(普段は自覚がない)受け身な思考癖」や「関わりから逃避しようとする(他者から距離を取ろうとする)癖」が、そのような気持ちを作り出しているのです。それらの「思い上がり」や「思い込み」「思考癖」が、僕たち自身の変化・社会の変化を阻害(そがい)し、僕たちの表現や行動を阻害し、世の中の明るい部分に「出会う」機会を阻害しているのです。

普段から、社会や周囲の人々に対して積極的に関わり、実質的な「はたらきかけ」を続けようとしている人は、社会や人に対して、簡単にガッカリしたりしません。少なくとも、そういう気持ちのままで居続けることはありません。そういった状態に居続けることが実際できないのです。何故でしょうか?

それは「自ら世の中や社会に向けて行動する」…そんな「自身の行動」によって、「希望を感じさせてくれる人々に出会っているから」です。変化の先端を歩くことによって、「明るい兆しも、間近で目にしているから」です。

世の中や社会に向けて行動する人々は、次第に「社会と自分との間で、被害・加害の関係を創造しなくなります」。人間は、自らを受け手・被害者の位置に置くことで、「自分は正しい側にいる」と思い込もうとしたり、それによって問題の本質から目をそむけ、自分を守ろうとしたりする癖を持っています。世の中や社会に向けて行動する人々は、受け手のフリをしない人々、参加していないようなフリをしない人々、被害者のようなフリをしない人々、観客席・批評家席にいるような気分に陥らない人々、なのです。

社会に対して・周囲の人たちに対して、実質的に「はたらきかけることを怠っている人」ほど、世の中に対して、すぐに嘆(なげ)いたり、落胆したりしてしまいます。「はたらきかけを早々に切り上げてしまう人」や、「自分のことばかりで頭が忙しい人」は、世の中や社会に対して、すぐにガッカリして見せようとしたり、突き放した物言いをしたりしてしまうのです。世の中や社会から「ゲットするもの(貨幣、評価、愛情、権利など)」に内心ご執心な人ほど、実は世の中や社会に対して怒りや落胆を抱きやすいのです。

それは、ほぼ大半の人が経験する「人生のある時期における状態・ある段階における状態」なので、今ご自分がそうだとしても、卑下することもなければ、非難されたと思い込んで、腹を立てることもありません。みんな、そんなもんなんです。ただ、そこで「正当化」という罠にはまって行くと、なかなか抜け出せなくなるので大変です。「自分は論理的で、物事について考えられる方だ」と思っている人ほど、その罠は近くにあると考えた方が良いでしょう。

「思い上がり」は、自己防衛と逃避によって生み出されています。人間は自らの「思い上がりや怠慢」を、すぐに正当化しようとしてしまいます。口では世の中や社会について考えているようなことを言っていたとしても、行動は基本的に自分のためばかり、誰と対していても、自分の考えている事や思っている事ばかりに気を取られてしまいますから、常に心のどこかには、周囲の人々や社会を見下そうとするような意識がはたらいてしまいます。そういう状態・段階に居続けてしまうと、「世の中や周囲の人に対して、とことんまで、はたらきかけよう」という選択肢や欲求を、自らの内に、さほど持ち得なくなってしまうのです。

そんな「罠」は、僕も含めて誰もが持っているものです。多くの人々が、そういう時期を経験するものだと思います。行動しない自分、とことんまで関われない自分、実は自分のことで忙しい自分、そうやって他者を遠くに置こうとしている自分に対して、まるで言い訳をするように、「周囲の人々にはたらきかけない自分」を正当化し、「思い込みの壁を破壊してくれるような人々に出会う機会を遠ざけている自分」をも正当化してしまいます。そこを誰かに指摘されると、気分を害し腹を立て、非難されたと思い込み、そんな自分を守ろうとし、理屈をこねて反論を展開し、そんな自分に居座ろうとしてしまいます。だって、「思い上がっているのですから」…。

エスカレートすると、社会や周囲の人々に「とことん」関わり、はたらきかけてゆくことには怠慢なクセに、社会や周囲の人々を潜在的に突き放すことで「自分たちは別次元にいる」ような気分になり、それによって人や社会から自分を守ることに熱心になってしまうのです。今の世の中は、そういう状態にある人々の多くが、その状態から抜け出せなくなっています。大なり小なり、互いにそうなのに、多くの人が「自分は別」と思い込んでしまいやすいのです。

成長の過程では、人間はその時々「未成熟」であるが故に、「自分が知り得たことや、分かったことばかりに目が行ってしまい」、自分はそこそこカシコイ、それなりに判断できる(ようになってきた)、と思い込んでしまうものです。年齢は関係ありません。その状態に長く居続けると、「世の中の大半の人々よりは、自分の方がよっぽどものを考えている・よっぽど物が分かっている」と思い込むようになり、人間は次第に自他の線引きに忙しくなり、「閉鎖的な自己愛」に陥ってゆきます。

「閉鎖的な自己愛」に陥ってしまうと、ものごと・できごと・周囲の人々に対して、すぐに嘆いたり落胆したりするようになります。「閉鎖的な自己愛」故に、自分の思い込みを「やっぱりそうだよね」と認めてあげようとして、自分の思い込みを強化するような情報や知識ばかりに目が行き、思い込みを強化してくれそうな人ばかりに出会うようになり、自分でも「気が付かないうちに」、それ以外のところには目が向かないようになってしまいます。

でもそういう状態は、世の中を人間を「知り始めた」人が通る、通過点のようなものですし、誰もが、実は一旦そうなっちゃうもんじゃないかなぁ、と思います。ただ、通過点は早めに通過した方がハッピーそうですね。だって、まだまだ先がある訳ですから!

ニュースやネットを眺める度に、暗い気持ちになったり、無力を感じたり、途方に暮れたり、イヤになったりしてしまう人は、「実は自分はまだまだ、世の中や人に対して、はたらきかけることを怠っているから、明るい気持ちにさせてくれる・希望を感じさせてくれる、より多くの人々に・より多くの知識や情報に出会えないでいるんだ」…と考えてみてはいかがでしょう。究極的には物事に明るいも暗いもないのですが、両方がバランスよく見えてくるなら、少なくとも世の中にガッカリしたまま、暗い気持ちのまま、ということはなくなります。

「出会いは実力だ」とは、文化人類学者の故・西江雅之の言葉ですが…この場合の「出会い」は、出会うべく人に出会う・視野や思考を拡げてくれる人々に出会う、という意味でもあり、「出会いは創造力に比例する」「出会いは探求の深さに比例する」とも言えるでしょう(この文化編のテーマ、エハンさんが挙げた「直感」「創造性」「独立性」ともつながってきますね)。

「この世には、知らないことが、とんでもなく、いっぱいある」と本当に思っている人、「この世には、まだ出会っていない素敵な人が、いっぱいいる」と本当に思っている人は、目の前のものごとに、世の中に社会に人間に、いちいち落胆してる暇なんてありません。もちろん、時々は暗い気持ちになったりすることはあるかも知れませんが、その状態に居続けることは「できない」でしょう。だって、実際「違う方に目を向ければ、出会うべき人々や情報・知識が、そこには溢れているのですから」。

心が自分のことばかりで忙しい人は、世の中に落胆しやすく、批判的で、否定的で、攻撃的になってしまいます。それらは「反応」であり、反応にとらわれている時、人間は多くのことを「感じられなくなってしまう」ものです。感じられなくなっているから、反応に終始してしまうのです。実際、「感じられなくなっている」時、僕たちは多くのものに「出会えなくなっています」。それは実は、創造力を失っているということでもあります。

多くの人が、「気付かされる」ことは、「お誘い」であるということに、「気付けない」でいるのです。同じ場所に立っていても、人間は「見ているものが、異なっていたりする」のです。視界を開けば、ここにいながらにして、見えていなかったことが見えてくるものです。オープンになるって、そういうことです。肩を叩かれて振り向かなければ、肩を叩く強さはどんどん強くなってきます。ちょいと振り向いてみれば、オセロの白黒が引っくり返るように、世界はまるで違った姿に見えてくるものです。

照らしてくるものを想定するから、人間はこの世界に、明るい所もあれば暗い所もあると思い込むのです。そうして「照らされる者として」、光と闇の間を行ったり来たりしてしまうのです。明るいも暗いもない世界は、「照らされない」世界。つまり、「光を受ける」のではなく、自ら光を発する世界(自ら行動し表現する世界)なのです。「行動と表現の世界」からのお誘いを、断らないようにしましょう。だって「時代は開くことになった」のですから!

『観客席は、ない!』

想像してみて下さい…大きなスタジアムで、野球の観戦中。

どうやらみんなが観に来る試合。チケット買って入場したから、試合を見物するのは当然の権利。受付でやってたサポーター・テストで点数が良かったので、なんと指定席ゲット。スタジアム中央で繰り広げられるのは、試合という名のドラマ。そこに登場するのは、選ばれた選手たち。試合を眺めながら、歓声を上げたり、ヤジを飛ばしたり、隣の人と喋ったり。自分のところにボールが飛んでくるような「思わぬアクシデント」が起こらない限り、観客席では高見の見物。観客席は見渡す限りの人、人、人。試合が停滞してきたら退屈だけど、適当に興味をそらしつつ、試合が盛り上がってきたら、再びフィールドに注目。みんなでワーワー盛り上がれたら何だか楽しい。

この巨大スタジアム、実は出口が閉じられてて、観客たちは、入った瞬間自覚のないまま「観客であることを選んでしまった」人々、だけど自分たちと同じような人が多くいれば、特に疑問も湧かない人々。座席番号を渡されフィールドから距離のある、安全なはずの観客席に座れば、あとは試合を待つばかり。多少の優越感を感じられる指定席、そのほかの自由席…いずれにせよ、そこが自分の場所となれば、そこだけが自分の場所だから、取られないように注意。試合に熱中してきたら、スタジアムの外のことなんて、すっかり忘却の彼方。「権利を満たしている」つもりで自分の席に座ってたら、瞬く間に時が経ち、見せられるままに試合を見て、ただ試合に反応し続け、やがて気が付いた頃には「ただの傍観者」として、人生が終了。観客という配役は幾らでも代わりがいる。空いた席には、新しく次の人が座り、何事もなかったかのように、試合は続く。何百年も、何千年も。人はどんどん変わっても、スタジアムの風景は、変わらない。

…なんか、こわい!

でも大丈夫。そんな妄想スタジアム、興味がなければ入らなければいいのです。入らなければ、ないのと同じです。皆さんは、ないはずの観客席に居座り、社会の出来事をただ眺めるようにして人生を送ってはいませんか?歓声をあげたり、ヤジを飛ばしたり、話題にしたりして隣の人と盛り上がったりしながら…無責任にも世の中を見下ろせる場所にいるような錯覚には陥っていませんか?眺めてる試合に、最初から参加もできない立場を自分で選んだのに、そのことに一向に気付かないまま人生を送ってはいませんか?自分たちの損得に関わらない限り、見えることの大半をスル―できる「高見の見物」を決め込んだつもりが、いつの間にか「誰かが見せたいように、見せている」ことを見せられて、それらに「反応するだけのような日々」を過ごしてはいませんか?沢山の人たちと共通の話題で盛り上がっていられたら、何となく疑問なく毎日が過ぎてゆくような気にはなっていませんか?

ご注意下さい。人類の長き歴史が誇る「あるはずのない妄想スタジアム」に、膨大な数の人々が迷い込んでしまっているかも知れません。目の前で繰り広げられる「数千年続く歴史あるゲーム」は、あの手この手で気を引こうとしますから、気を取られてるうちに「ただの傍観者」のようになって人生を終えることになったら、それこそ大変。本当は、「この世界には観客席はない」のです。自分の席だと思い込まされ、うっかり座ってしまった席から、ヒョイッと立ち上がりましょう、なんせ「時代は開くことになったのですから」!

★予告編ブログ5回目。いよいよ文化編開始の日が近づいて参りました。

さて、この世界・この社会には、全ての人間が認めざるを得ない、ただ一つの「現実」がある…そんな風に思っていませんか?人間が、みんなで共有している、客観的で、疑いようがなく、逃れようもない、ただ一つの現実。そんなものがあると思いますか?

現実という言葉を、今日から「物語」という言葉に置き換えてみましょう。会社という物語、競争社会という物語、ビジネスという物語、成功と失敗という物語、子育てという物語、ご近所付き合いという物語、受験という物語、生存競争という物語、パワーゲームという物語、戦争という物語、陰謀という物語、経済という物語、現代という物語…

それらの物語が「どれほど目の前で大きく見えていたとしても」、それがこの世界で展開している「唯一の物語ではありません」。その大きな物語は、膨大な数の人々が共同で描いている、一つの大きな絵画のようなものです。その共同作業に参加し、一緒に描くのに熱中していると、まるで世界のほぼ全ての人が参加しているような錯覚に陥り、更に他の人を巻き込もうとしてしまいます。「物語」は大きくなると、一種の独立した生命のようになって、「描いている者たちを使って、より大きくなろうとする」のです。

スタジアムでの試合に歓声を上げている間・ボールの行方ばかり追いかけている間、人間はボールの行方や試合の推移以外に、そこで「膨大な数の物語が同時進行している」ことに、気が付けなくなります。たとえば歴史も、決して「一本の線」ではありません。膨大な数の線が、様々な人間の様々な選択が、見える所でも見えない所でも絡み合って交錯してゆくのです。たまたま「見えやすくなっている一本の線」も、それを取り囲む膨大な数の線がなければ、生じ得ないのです。ですから、僕たちが「見ている現実」も「知り得る歴史」も、言葉の通りの現実や歴史ではないのです。真実は一つではなく、「把握できないほど多くの事実が、絡み合い、うねり合いながら、同時進行している」ということが、真実なのです。

長い年月をかけて巨大化した一つの物語が、目の前に立ちはだかっていたとしても…膨大な数の人間がその共同作業に参加しているように見えたとしても、この世界で展開している物語は、それ一つだけではありません。僕たちは「幾つもの物語を生きる力」を持つ生命であるばかりか、「新しい物語を毎瞬この世界に描き加えることができる生命」なのです。この、物語を描く力こそが文化力でもあるし、目の前の物語をひも解く力も文化力なのです。文化力とは、本質的な豊かさを創造する力、ということも出来るでしょう。

それではみなさん、15日にお会いしましょう!

『カッコ良く見える人のほとんどは、実はカッコつけてるだけなの!』

この社会に暮らす大半の人々は、「だまされたくない」「損したくない」と、日頃から強~く思っています。でも、初めて聞く情報や新しい事実、聞いたことのないアイディアなどに出会った時…『眉をしかめ腕組みをし、「え~っ!?/あやしい!/聞いたことないぞ!」と“反射的に”拒絶反応を示し、警戒し遠ざけようとする人』と、『とりあえず近づき、「どういうこと?/なんでなの?」と、疑ったり検証したりして吟味しようとする人』は、頭の中が全く異なります。

否定や拒絶反応が、いきなり“反射的に”出てしまう人々は、元々「だまされやすくて、損しやすい思考パターン」を持っているのです。考え始めると、思考の軸を失い「自分自身が揺らいでしまう」可能性が高く、実は「だまされやすい・流されやすい」とこがあるのを、心のどこかで自覚しているからこそ、「そもそも考え始めないように」最初から出会う情報をパターン的に判別・識別し、反射的に「はね返す」よう、自身を“初期設定”しているのです。

厄介なことに、隣の人たちも同じように“反射的に”反応してたら、「そうそう、みんなもそうだよね」って安心してしまい、自分の中の“初期設定”には疑問も抱かなくなってしまいます。この社会には「周囲と同じように見えたら、とりあえず安心して思考を一旦停止してしまう」という習慣があるからです。たとえ自分の中に疑問や違和感が湧いても、「自分だけ」のように思えたら、表現せずに押し込めてしまう…これもよくある反応で、どんな反応であっても多数の人々と共有できたら、人間はとりあえず安心してしまうものです。だからこの社会は「ほぼ自動的に」、ごく一部の「特殊な立場の人々」と、「その他大多数の人々」に、分かれてしまうのです。

この“初期設定”、「決まったところからの情報は、どんどんインプット」してしまうのに、それ以外のところからの情報は「外部情報」として、即座にシャットアウトしてしまいます。この「外部情報への過剰な反応」によって注意を外に向け、“自分の内部状態をあやしむことが出来ないよう、巧妙にプログラミングされている”のです。これって、パソコン・メールの受信設定をウィルス対策で厳しくし過ぎて、あるところからのメールはどんどん届くのに、それ以外のところからの重要なメールは、入り口でガードされて全然届かなくなっている…という状態と、ほぼ同じと言えるでしょう。

一方、「だまされにくく、損しにくい思考」を普段から持っている人なら、新しい情報や事実、聞いたことのないアイディアに出会っても、むしろ好奇心たっぷりに覗き込むはずです。強い武道家が、どんな人から試合を申し込まれても「よっしゃ」と引き受けるみたいに。まずは近づかないと、本当の意味で「疑ったり検証したりする」ことも出来ませんし、考えることを面倒に思っていない人ならば、「だまされたらどうしよう・損したらどうしよう」なんて、自分で確かめたり考え始めたりする前に、思ったりしません。

そんな人が沢山いたら、世の中はもっと急速に変化を遂げていたかも知れません。社会の階層は引っくり返っていたかも知れませんし、ある人たちは手放したくないであろう立場や利権を手放さざるを得なかったかも知れません。でも世の中はまだまだ相変わらずのようですから…もしかしたら世の中の大半を占める「“反射的に”反応してしまう人々」は、「だまされたり損したり」しないよう気を付けているつもりが、実は既に「だまされてしまっている」のかも知れません。

ところで…まだ幼い精神の女の子たちは、しばしば、不良っぽくしてる男の子やカッコつけている男の子を見ると、「カッコいい~」と胸キュンしちゃうそうです。幼い精神の男の子たちが、キレイにメイクして流行のポーズをキメてる女の子を見ると、「超カワイイ~」と胸キュンしちゃうのと同じですね。この年頃の子供たちは、自信たっぷりに行動する人を見たら「すご~い、自信あるんだ」と思っちゃうし、偉そうに振る舞う人を見たら「きっと偉い人なんだ~」と思っちゃいます。つまり、「カッコ良く見せようとしている人を見て、カッコいいと思ってしまう年頃」なのです。でも、みんなが大人になってもそんな調子じゃ、まずいですね。この社会が、中学校の教室みたいになってしまいます。

ホントはね…

カッコ良く見える人は、そう思ってもらおうとして「カッコつけてる」だけで、実は「そうしてること自体、そんなにカッコ良いことじゃない」の!自信ありそうに見える人は、自信あると思い込んで、そのように振る舞ってるだけで、実は単に自分がわかってないだけなの!賢そうに見える人は、賢いね~って言われたことがあるから自分でも賢いと勘違いしちゃっただけで、本当はそれほど賢くもないの!何でも知ってるように見える人だって、別に何でも知ってる訳じゃないの!個性が強そうに見える人が、案外中身はフツーだったりするの!芸術家みたいな顔してる人が、頭の中は自己承認欲求でエゴのかたまりだったりするの!スピリチュアルでサイキックに見える人の頭の中が、実はとりとめのないコンプレックスで詰まってたりするの!カウンセリングしてる人が、本当はカウンセリングが必要なタイプだったりするの!

偉そうに見える人は、「偉そうにしてたら皆がビビっちゃう」のを知ってて、そう振る舞ってるだけで、ホントは全然偉くなかったりするの!強そうに見える人も、強がってるだけで、本当は中身は弱っち~かったりするの!大人みたいに見えても、中身は未熟な子供だったりするの!クールに見えても、そう振る舞ってるだけの人がほとんどなの!まじめで優しそうに見える人が、実は嫌われるのを怖がってるだけの人だったりするの!みんなが賛同しているように見えたとしても、本当にそうとは限らないの!本当のことのように世の中に広まってることが、本当のことを隠すためだったりするの!みんなが「それ」を信じてるように見えても、実際には信じ込まされてるだけで、本当はほとんどの人が「他の事実を知らない」だけなの!「オレはだまされないぞ」って言って腕組みしてる人が、既に頭の先から足の先まで、だまされてたりするの!

スゴそうに「見える」ものや、「みんながスゴいって言う」ものに出会っても、物怖(ものお)じすることはありません。「そう見せよう」としてくるものがあっても、「そう見ようとしなくてもいい」のです。まっすぐ感じてみましょう、そしてじっくり考えて、素直に表現してみましょう。共有なんてしなくてイイじゃないですか、分かってもらえないことなんか、恐れなくていいじゃないですか。何といっても「時代は開くことになったのですから」!

★ブログ4回目…開催まで10日を切り、このブログもどこからどこまでが前置きなのか、わからなくなってきましたね…

どんな人の頭の中にも、多かれ少なかれ「権威主義」が浸透しています。特にこの社会の人々は、「みんなが知ってる」ように見えるものや、「みんながスゴイと思ってる」ように見えるものに、極度にヨワイのです。そういうものには無邪気に目を向け、「すごい、アレだよ!」と盛り上がり、「へへ~」と頭を下げ、簡単に「有り難いものだ」と思い込んでしまいます。でもその一方で、あまり知られていないものや、「お偉い」評論家や学者やセンセーや著名人たちの賛同やお墨付きがないものに対しては、特に目も向けず、場合によっては気も付かず、踏みつけて通り過ぎてしまいます。自分で価値判断が出来る人・物事の違いが分かる人は、あまりいないのです。

だから、多くの人々が「権威」の印を欲しがるのです。政治家も社長もセンセーも、芸術家も評論家も料理人も、医者も教祖も商売人も…それがあれば「とりあえず一定以上の価値を多くの人々に認めてもらえる」し、逆にそれがないと、場合によっては「存在していないかのように扱われる」からです。人々の権威主義に便乗して、ハッピーをつかもうとするのです。

独特で、自信ありげで、どれだけフツーじゃないように見えたとしても、「Aのように見せてたら、みんながAとして扱ってくれる」と考え、「Aらしく」振る舞っている人は…(その人をAと思い込んで、その通りに扱う多くの人々と同じく)案外フツーの頭の人なんです。世の中の大半を占めている、フツーの、権威主義信奉者なのです。

だからこの文化編でも、エハン先生とか、ましてや、タロー先生とか呼んだりしなくていいのです。エハンさん・タローさんでいいのです。政治家も(代議士っていうだけなんだから)、センセーなんて呼んじゃダメなんです。学生じゃなければ、相手が教授でも、ホントはセンセーって呼ばない方が良いのです。実際日本人は長い間、「先生という言葉を間違って使い続けている」のです。そうやって知らず知らずのうちに「魔術のかけあい」をやっているんです。この社会は、呪術や魔術と決して無縁ではなく、みんな「知らずに、使い続けている」のです。

いい加減、『あきらめ』ましょう!!

「 “ 本当の私” を探す」「“ 本当の自分” を見つける」という表現を、世間ではよく耳にします。でも考えてみて下さい…「私」や「自分」に、“ 本当” とか“ ウソ” とかが、「本当に」あるんでしょうか。

実は世間では、“ 本当の私” “ 本当の自分” という言葉が、日常的に「全く違う二つの意味」で使われています。
一つめは「こうだったら、みんなに認められるかも・受け入れられるかも・愛されるかも~という自分」。自分で許せて、納得できて、自信を持てそうな自分のことですね。
二つめは「こんなところを人に知られたら、嫌われるかも・愛されないかも・わかってもらえないかも~という自分」。日頃、「あまりみんなに見せていない自分」のことです。
これらは一見、全く逆のイメージですが、人はその時の気分や状況で、いずれか片方を「本当の自分」と呼んでしまうのです。

では実際、どちらが「本当の」自分なんでしょう。
「みんなに見せていない普段の私」が本当の私なら、「みんなに見せている私」はウソの私?「本当の自分」を見つけるまでの人生は、「ウソ・いつわりの人生」?

言葉の使い方には、いつも「罠」があります。本当は「“ 本当の私” も“ ウソの私” も、ありません」。もし何らかのフリをしてしまうなら、それは「そういうフリをしたいという想いが“ 私” の中に在る」というだけのこと。
人間は、“ 私”“ 自分” があまり「見えていない」時に、自分自身の中に「私①とか私②を、次々に生産してしまう」のです。
「じゃあ、“私”が見えてきたら、“本当の私”とか“ウソの私”とか、なくなるの?」
…そう!少なくとも“私”の全貌が見えてきたら、次第に「本当の私」という言葉は使う必要がなくなってしまいます。だって、そこには「本当の私」しかないんだから、その人は「その人自身に見えてきた“私”」として、思考し行動するだけになります。

自分ほど、自分を楽しませてくれるエンターテイナーはいません。「今まで、自分の中で、色んな自分が内戦を繰り広げていた…」という方もおられるかも知れません。でも、もう自分の中に国境線を引くがごとく、自分を“色んな自分”に分割してゆくのはやめましょう。自分①のフリをするのも、自分②のフリをするのも、それぞれにハマり込むのも、もうほどほどにして、それらを創り出してきた自分の創造力を、「どれどれ~」と眺めてみませんか。「時代は開かれることになったんですから」!

★ブログ三回目。だんだん前置きが長くなっていくような気もしますが、それは良いとして…
「文化の話はいつ出てくるのだろう?」と思っている方も、おられるかも知れません。でも実はこのブログ、ずっと「僕たちの文化」についての話をしているのです。

僕たちは、この社会で「うまくやる」ために、自分自身を、「見せられる私」と「見せられない私」、「見せたい私」と「見せたくない私」、「見せてもいい私」と「見せたらヤバい私」などに分割して、それらの上を浮遊しながら暮らしており、「いまだ“私”に着地できていない」のです。ちょうど、「どっちが正しいの?」とつぶやきながら、様々な情報や知識の上を浮遊して暮らし、「いまだ、ひとつひとつの“事実”に着地できない」…というのと同じことです。

では、どうして僕たちは、なかなか着地できないでいるのでしょう?それは、ただ「知ろう」とするよりも先に、「どっちが得?どっちが損?」を反射的・習慣的に考え始めてしまうからです。「本当の意味で“知る”」ことは、「自動的に次の行動を創造」してしまいます。そして行動することは常に、責任をともないます。それをどこかで「分かっているからこそ」、多くの人々は「知ろうとすること」「着地すること」から、とっさに逃れようとしてしまいます。

そんなに得したい?そんなに損がこわい?そんなに勝ちたい?そんなに負けるのがこわい?
本当は、損も得も、勝つも負けるも、ないのに。「本当」の中に飛び込めば、そこには本当もウソもなくなるのに。

この社会でスコアをあげることは、いい加減「あきらめ」ましょう!「あきらめる」とは、もともと「明らかに見る」という意味です。「あきらめ」ないと、見えてこないことがあるのです。「明らかに見ようとすること」は、感じること知ること…そして更に、考えることや判断すること、選択することや行動することを「変えてしまいます」。
僕たちが使っている言葉には、実はいろんなヒントが隠されていて、僕たちに「読みとられる」のを待っています。「文化力」と呼ばれるものは、実はこの「読みとる力」に支えられているのです。

プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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