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「創造的対話のススメ」第一回終了!

皆さん、こんにちは。先だって行われた催しのご報告をさせて頂きます♪

一部参加者の方々が大幅に遅れて来られたので、急遽「場つなぎ」に、ミニ・コンサートとダンス体験会(!)で始まった、「時代は開くことになりました!」実践編第一回“創造的対話のススメ①”

今回は実践編というシリーズのスタート企画として、テトラーダ本部のある京北(京都の北の山村)で、少人数による、いわばテスト飛行的な催しだった訳ですが、期せずして「対話というテーマを企画すること自体の難しさ」が、浮き彫りにされる事となりました。

新しい対話のあり方を探るには、従来の対話にある「幾つかの問題点」を、まずはお互いに認識し共有しなくてはなりません。何故かと言いますと、「自分自身は問題ない」と強く思っている方は、問題点を認識することも共有することもなく、そのまま「自分自身が慣れ親しんだ従来の対話のやり方に、突入してしまう」からです。

今回の最大の発見は、ここで「創造的対話」と呼ぼうとしているものは、想像していたよりもハードルの高いものであるということ。そして、「言いたいことが発言できたかどうか」「自分が、扱われたいように扱われたかどうか」に思考の大半が向いてしまう方には、(そこに自分自身で問題意識を持たない限り)ここでいうような創造的対話は難しいのかも知れない、ということでした。

この企画にあたって核となったのは、「もっと互いが高め合えるような、そんなやりとりを日常の中に増やすことはできないものか」というメンバーの一言でした。高めるということは、成長を目指すということであり、「その時点の自分たちとは、異なる自分たちに向かう」ということでもあります。つまり創造的対話とは、「その時点での、自分たちの意見の発し合い(反応の、し合い)」「その時点での、自己の扱われ方(エゴの満足)」は、二の次になるような…そんなやり取りとも言えます。この「高める」「成長」を、「時代は開くことになりました!」シリーズでは「人類の精神的進化」と表現してきました。

世の中のやり取りの大半を占めてしまう「言いたいことが発言できたかどうか」「自分が、扱われたいように扱われたかどうか」は、それぞれの在り方の固持、過去や現時点への居座りの状態を創ってしまうので、それが関わりにおいて、次の状態に進むこと・互いに「ひらく」ことの、壁にもなってしまう訳です。ともすれば、せっかくの対話も、自分の経歴・来歴や自分の考え・意見の、単なる示し合い・見せ合いに終わってしまいます。

そんな訳でこの企画、いきなり「参加者がその場でどんどん対話をしよう」という趣旨の会ではなく、あくまで「普段の対話に潜む問題を考え、参加者それぞれが次の日から取り組めるような、新しいアイディアを提供し、共有しよう」という趣旨の「講演会+質疑応答+座談会」でした。

つまり、「今の状態のままで対話をしてみよう」という会ではなく、「対話」そのものをテーマにして、「新しい対話のやり方を試してみませんか」というアイディアの共有が最初に行われるはずだったのです。でないと、「旧来のやり方」の、ただの意見交換会になってしまいますから。

ところが…開始時間が遅れたこともあり、最初の説明も早足になりましたから、趣旨内容を聞き逃していた方もおられたことでしょう。レジュメも配ったのですが、特に目を通さない方もおられたのかも知れません。(実践編という名称のせいもあったと思いますが)最初から趣旨を誤解されていた方もおられたのかも知れません。会の開始直後から発言し始めた方もおられ、そこからいわゆる「世間によくある、意見のやり取り」が始まってしまったのです。

こうなってしまうと、実はその(始まってしまった)流れを変えるのは困難になってしまいます。何故かと言うと、「それこそが今回、問題を指摘しようとしているタイプの対話」そのものだからです。

まさに、そこで、それが、始まってしまうと、そこに露見している問題を指摘するのは(今回の講演内容を詳しく語るのは)、ともすればその場におられる個々人に対する、ダメ出しのような意見にもなってしまいます。

また、発せられた意見が、今回のテーマである「対話」についての意見ならまだ良かったのですが、どちらかというと誰かの使った言葉や表現・トピックに関する意見や反応が目立ちました。それもそれで尊重して進めても良いのですが、あまりにもそこに時間を割き過ぎると、今回の話題の核心にいつまでたってもたどり着けません。

このような催しは基本的に何が起ころうと臨機応変に進めれば良いだけなのですが、おそらく今回のテーマにそれほど興味を持っていない方もおられたのでしょう、軌道修正して核心の方に向けようとすると、小学校の学級崩壊のようにウロウロする方もおられたり(「自分の行動が、その時点の自分を表していると同時に、他の人を含めてのその場の現実を創造してしまう…という意識を持ちましょう」というのも、今回のテーマだったのですが)、結局レジュメに詳しく触れる以前の状態で、かなりの間「対話」というテーマから外れたまま、いわゆる「意見交換会」が続いてしまったのです。もちろん、それが実りないものであった訳ではありません。そこでも色々と発見はあったのですが。

同じ発言・意見でも、相手に質問し確認してからの意見なら対話的でもあるのですが、質問も確認もないままの発言・意見が出てしまうと、対話は行ったり来たりを繰り返すことになり、創造的どころか建設的にもならないものです。その辺りのことも記載し、説明すべきだったかも知れません。人はしばしば、自分の内なる問題を外に向かって転嫁しながら、他者と対峙してしまいます。自分の意見と言うものが、自分の問題を映し出してしまっている場合もあり、単なる意見のやり取りはしばしば、それぞれの抱えている問題のやり取りになってしまうのです。

そうしてほぼ時間的には終了時刻を過ぎてから、少しばかり仕切り直しのようにして短い座談会が持たれました。残った参加者の方々との間で、単なる意見のやり取りにある違和感、現代社会での関わりにある問題など、対話に関わる幾つかのトピックについて互いに話もできたので、とても有意義なものになりました。

日頃から、人との対話で大概ハッピーを感じている人々と、しばしば苦痛を感じている人々がいます。この講座、「全てを創造しているのは自分だと自覚していますか?」というテーマが、最初に謳われていました。対話を単なる意見交換にするのも、それ以上のものにするのも、その人の創造性にかかっています。

樹の皮を剥ぎ、内面が晒される…それが「あらた/あたらしい」という言葉の意味の一つだった、という話をしました。着込んだ服を脱ぎ捨てて、風に当たって気持ち良いと感じる人もいれば、弱い部分が風に晒された、苦痛だ、と感じる人もいます。新しい自分に向かうのを阻害するものとは、何でしょう。その原因を外に向けてばかりいると、扉は開かないのではないでしょうか。もちろん、無理に開くことはないのかも知れませんが…少なくとも、閉じたままでいると、自分自身を苦しめている、「自らが為した、思わぬ創造」から、なかなか逃れることができないようにも見受けます。

「創造的」対話は、やはり大きなテーマでした。その創造性を、単なる意見交換や、やり取りの中でとらえようとするのは、難しいですね。今回のレジュメ、まとめ直して加筆した上で、簡単な本にしようと決意しています。より多くの人々に、「ひらいて」欲しいと思うからです。

レジュメにもあったのですが、挨拶という言葉には、開くというニュアンスに近い意味がありました。また、進化(evolution)とは「閉じられたもの・折りたたまれたものが、展開される」というような意味が本来あります。対話とは、互いを開くもの、進化(もしくは成長)に向かうものとも、言えるのではないでしょうか。
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文化塾「時代は開くことになりました!」が遂にスタート

皆さん、こんにちは。

第二回エハン塾文化編(7/30)から早いもので一ヵ月以上!その後、僕は軽井沢のカクイチ研究所SPIRAで開催されたエハン塾番外編「人生の暗号を、ことばと音楽で解く」(8/21)でも、エハンさんとご一緒させてもらいました。今回はこの二つの催しをまとめて、簡単にご報告させていただくと共に、今後の企画についても、お知らせいたします。


◆第二回エハン塾文化編「時代は開くことになりました!」(7/30)のご報告

※この日の、ミニ・コンサートを除く2講義分の映像記録(3時間16分程あります)は、YouTubeで公開しております。内容にご興味のある方・お時間のある方は、是非ご参照下さい。

「蝶が見ている世界」「鳥が聴いている世界」…虫や動物たちの、視覚と聴覚によって作られる「世界像」の話でスタートした、今回の文化編。最初のテーマは「客観的な世界など無い・ただ一つの現実など無い」ということでした。全ての人が共有する、唯一絶対的な「現実」が存在するかのような思い込みは、僕たちの知覚・発想・思考・行動を、知らず知らずのうちに制限し、阻害しています。

「思い込みを観察する」ことも、今回のテーマの一つでした。世界に対する思い込み、知覚に関する思い込み、自分に対する思い込み、社会に対する思い込み、歴史に関する思い込み、関係における思い込み、仕事に関する思い込み、男女に関する思い込み…僕たちの内にある思い込みは、挙げだしたらキリがありません。

思い込みが少ない人と、多い人では、瞬間的に知覚する情報量が異なり、感知する能力の高い人と、低い人では、瞬間的に見えているもの・味わっているものが、大きく異なります。同じ場所に立っていても、(比喩やたとえ話ではなく)両者は、全く「別の世界の中を生きている」のです。

思い込みを捨ててゆくことは、感知する能力を高めてゆくことでもあり、自分を開いてゆくことでもあります。自分自身を「ひらく」ことによって、世界はより感知され、それによって自分自身の世界が「ひろがり」、そしてそれによって、様々な人の世界は互いに重なってゆくのです。

その第一歩として、僕は「普段使っている言葉や言い回し」について、知ること・見直すことをおすすめしています。普段の何気ない言葉や言い回しは、知らず知らずのうちに僕たちの思考を形作り、行動を左右しています。自分たちが使っているものから自由にならずして、自由になることはありません。使っているものについて知り、「使い方を変えてみる」「意識して使ってみる」ことは、自分自身や身の周りの関係を、生まれ変わらせる、最も強力でスピーディーな方法です。それは「日常生活の中で、常にスイッチを入れることができる方法」だからです。

そこで今回は、「感じる」「分かる」「信じる」「祈る」などの言葉についても触れました。「信じる・信じない」や「自信がある・ない」といった言葉表現は、認識や思考のレベルが上がると「使う必要が消えてしまう言葉表現」です。また、「分かる」という言葉は、日常的に頻度が高い一方で、使う度に思考に罠を生じさせてしまう危うさを持つ言葉。この2つの言葉・表現を、できるだけ日常の中で「使わないようにしてみる」というメソッドを、紹介しました。使わないようにすることで、ひろがる認識というものがあるのです。

今回の文化編、2講義ながら様々な話題に及ぶ会になりました。動植物の世界、言葉の使い方の罠、古代の人々の地の世界の捉え方、世間ではよく知られる言葉「足るを知る」を知覚的側面から考察した解説、より感じるためのメソッドなどは、皆さん特に関心が深かったようです。講演後のミニ・コンサートでは、最後全員で輪になってダンス。その後の親睦会では、参加された方々の間で話が尽きませんでした。


◆番外編「人生の暗号を、ことばと音楽で解く」(8/21)のご報告

※番外編(4講義)の方は記録のみで、映像公開などはされてはおりません。

文化編では、「音楽」そのものについて、あまり直接的には触れてこなかったので、この番外編では特に音楽に焦点を当てて欲しい、という要望がありました。しかし、音楽について語ることは、そのまま人類の歴史や文化について語ることでもあります。受講された皆さんの、音楽に対するイメージやご経験などについて、様々な角度からコメントをさせてもらったら、限定10名の講座ながら、一個目の講義がこれだけで終わってしまいました。

音楽という言葉は、元々「ミュージックという言葉とは異なる意味」であったにも関わらず、明治以降に訳語として当てはめられ、使われるようになった言葉です。この「音を楽しむ」と書く字面によって、どれほど多くの人々が、音楽に対して誤解を抱いてしまったことでしょう。

この国では大半の人々が、「商業」と「教育」を通して「音楽」に出会います。そこで「教えられたもの・接したもの・知ったもの」だけを、人々は「音楽だと思い込んで」しまいます。音楽文化は、商業主義や現代の教育などが登場する、はるか昔から人類と共に在ったにも関わらず、音楽文化というものが「そもそもどういうものであったのか」、学校で教えられることもなければ、メディアでとりあげられることもありません。音楽や楽器が、人間や社会の「何を映し出して来たか」ということについても、学校で教えられることは、ほとんどないのです。そのため現代社会に生きる人々は、「音楽という文化から、何も読み取れなくなっています」。読み取ることができないということは、そのまま、「文化力を喪失した(ただの消費者になった)」ことを意味します。

楽器の作り方や発達の仕方、合奏の仕方、音楽の記録や記載の仕方…それらは、それぞれの時代背景や環境を、そのまま如実に映し出します。「人と人の関わりの中で、何が優先されてきたか」「その時代、どのような社会が築かれていたか」「人々は世界を、どのように感じていたのか」が、そこから見えてくるのです。2個目の講義からは、おそらく受講された方の多くが、「音楽についての講義」とは思わないで(たとえば人類の歴史や心理学・社会学などのようなイメージでもって)、話を聞いておられたと思います。

「表現と表出の違い」「身体と音楽のつながり」についての話は、受講された方々が最も関心を示された話題でもあったため、3個目4個目の講義で、特に時間を割くことになりました。これらは「自分とは何か」「どのようにして人間は、自分を知っていくのか」「人と、どのように関われば、幸せを感じることができるのか」ということに関する話でもあったからです。「合わせることの本質」、「多くの日本人が抱いている、合奏に関する大きな誤解」についての話と共に、今後文化編・その他の企画の中でも、度々触れることになるのではないかと思います。

4講義(朝10時半~17時)というボリュームの長丁場の講義を、(間に少し演奏をはさみはしたものの)皆さんよく最後まで熱心に聞いて下さったものだと思います。音楽の経験のある・なしに関わらず、多くの方が、音楽について知ることよりも、今回のテーマでもあった「音楽的に生きる」ことに、強い興味を抱かれたことが感じられました。今回のような内容にご興味のある方は是非、次回テトラーダ企画の際に、ご参加下さい。

◆今後のTETRADA(テトラーダ)企画「文化塾“時代は開くことになりました!」についての、ご報告

第二回エハン塾文化編は、京都・京北を拠点とするネットワーク「TETRADA (テトラーダ)」が、カクイチ研究所やエハンさんと共に企画しました。「TETRADA」は、正四面体を表す「Tetrahedron」を動詞化するようにして作られた造語で、様々なエネルギーの「関係性」を象徴しています。余談ながら、「DA」を付けると、南米の山岳地域の音楽の言い方で、正四面体を楽器に見立てて大合奏をするようなイメージにもなります。

2016年年内はエハンさんがかなりお忙しいのですが、一方で、大きな時代の変化を迎え、よりスピーディーに情報や知識・知恵を共有し、問題意識を持つ人々や関心・好奇心を持つ人々がより頻繁に出会い、対話し、意識改革・気付き・学びの場を互いに提供し合うことの重要性は、以前にも増して高まって来ています。そこでTETRADA(テトラーダ)が、この文化編の内容を更に掘り下げる形で、講座や対談・ワークショップなどを、今後京都を中心に、コンスタントに企画していくことになりました!

本家カクイチ研究所エハン塾やアーシング体験セミナー等で、八面六臂のエハンさんが参加できない回も多々ありますので、タイトルをエハン塾文化編「時代はひらくことになりました!」から、文化塾「時代は開くことになりました!」に変更し、今後皆さんに情報を提供していきたいと思います。ご期待下さい!

報告④ 『答えを出すために、考えないでっ(?)』


第一回(4/15)「時代は開くことになりました!」報告編、会場の皆さんとの質疑応答コーナー補足シリーズも(遅くなりましたが)、いよいよ今回が締めくくりです。次回からは、第二回(7/30)の予告編を開始します。(ご興味のある方は、YouTubeでの第一回収録映像/録画安定版1~4も、あわせてご参照下さい)

※ご質問部分は、短く要約・意訳しております
※今回のは、とても長いです!3つのパートに分かれていますので、お時間のある時のどうぞ。

◆「自分の子供が、集団に今一つ馴染めないでいる。親としてはそんな子供の個性を、<それでいいんじゃないの?>と思ってあげられるが、その個性が集団の中でどう作用してゆくかは、本当に紙一重。困難に遭うかも知れないし、認めてあげることが本当に子供にとって良いことなのか、どうしても考えてしまう。」「親として、感情と思考のバランスを取るのは難しく、迷ったりブレたりしてしまう。」「モノや情報に溢れた時代。これから人間として出来上がってゆく子供たちに対し、大人として・親として・人として、どういうメッセージを出しながら接してゆけば良いと思いますか。」


1)メッセンジャー

親がこうして、悩んだり、迷ったり、ブレたり「してくれる」ことこそが、子供にとって「救い」になっていることも、あると思います。悩んだり迷ったりブレたりすることは、それ自体が悪いことではありませんしね。

かつては「子育ては、こうするもんだ」と、疑問なく言えるような時代もありました。しかし今はご存知の通り、従来の価値観が、大きく揺らいでいる時代です。学校や教育の在り方も、大きく変化しつつありますし、子供たちは、「既にこの社会で機能しなくなりつつある視点や価値観」に対して、とても敏感です。集団に馴染めないでいる子供たちは、特にそうです。

そのような子供たちは、たとえ身の回りで少数派のように見えたとしても、広い範囲で見れば、決して少なくはありません。大人や周囲に合わせて、「馴染んでいるように振る舞っているだけ」の子供たちも、沢山います。また、「問題がないように見えている子供」や、「うまくやれているように見える子供」が実際そうなのかと言うと、そうとも言い切れません。会社の中で平気な顔をして働いていても、実は平気ではない大人の方もおられるでしょう。長い時間をかけてストレスが表面化することもあります。子供だって同じことですね。

この社会では、子供でも大人でも、その時々「うまくやれてそう」だったら、「大丈夫そう・特に問題はない」と見なされ、周囲から注意を向けられにくくなります。もちろん、わざわざ問題を見つけようとする必要はありませんが、相手が子供であっても、パートナーであっても、親であっても、隣人であっても、自分自身であっても、「うまくやれてる・やれてない」というところだけで、その人の状況を「測る」クセがついてしまうと、その人から発せられる様々なサインを、ついつい見逃してしまうものです。

子供の個性について、もしくは社会と子供の関わりについて、「あれこれ考えなくてはならない状況にある」親御さんは、そんなサインに敏感にならざるを得ません。それはある意味、子供さんを通して次の時代からの兆しや導きを、「よりキャッチしやすい状況にある」ということでもあります。

学びには、人それぞれの順序や順番があり、どの部分から成熟させていくかは、人によって異なります。子供が何らかの困難を経験するとすれば、その子供は人生の早い段階で、ある部分を成熟させるきっかけを得ようとしているのではないでしょうか。個性というものは、経験によって熟してゆきますから、個性の強い子供ほど、早い段階で「学ぶべく、経験しようとする」ものです。

そして同じ経験であっても、それを「どのように体験するか」によって、その意味合いは異なってきます。子供たちにもたらされる経験は、たとえその時その時、困難なものであったとしても、近い将来「彼ら彼女らが、互いに出会う際」に、重要な意味を発揮します。「そのことに、経験的に確信を持っている大人」が、周囲にどれ位いるかによって、子供の体験は変わってくるように思います。

たとえば「大人になってから、深いところで共鳴できる人々に出会えるようになってきた」「同じような体験をしてきた人々と出会うようになった」「全く異なる経験から、同じような考え・似たような考えに至った人々に出会うようになった」という方は、案外沢山おられると思います。そのような出会いが起こったのは、「出会うための準備が、整ったから」ですね。

人生には、孤立したり、孤独を感じたりするような経験も、あるかも知れません。しかしどんな経験も「その瞬間には個人的なものとして体験するしかない」というだけで、時が経てば、その経験こそが「互いに出会うべき人々を、引き寄せ合ったりする」ものです。一つ一つの経験は、長い目で見てみると決して孤立している訳ではなく、「いまだ出会っていない人間同士が、将来出会うための準備」のようなものですね。

体験していることの「理由」なんて、その時々には誰にも分からない。しかし未来には、必ずそれらの体験の「種明かし」が用意されているものです。子供自身にも、そしてその隣で気をもむ親にも、「その瞬間には明かされることのない、人生の秘密」というものがあると思います。

その時々に「見えている範囲・分かっている範囲」で、無理やり「答えを出そう」としたり、「意味を与えよう」としたりせず、その時がいつか確実に訪れるものであるという確信を、親・大人が「経験的に」持っていることが、重要だと思います。

自分という「個」を完成させてから子供を授かる人なんて、ほぼいません。子育てに突入して、それから自身の人生を振り返り見直し、自分を「築き直してゆく」機会を与えられる人がほとんどだと思います。その時々に「どうすればよいのだろう」と立ち止まり、行動する度に「これでいいんだろうか」と悩んでしまうのは、おそらく自然なことですね。

むしろ「悩んでないフリ・迷っていないフリ・ブレないフリをしてしまう」事の方が、厄介です。「個」が完成されていない段階で子供がやって来るものですから、多くの人々は「いわゆる親・大人」に大急ぎで「なろう」としてしまいます。

このような「インスタントな変化」は、いわば「架空の成長」で、その人が持っている「思い込みをしばしば強化・加速」させたり、「漠然とした焦り」を引き起こしたりしながら、その人をいつの間にか「思考回避」状態に追い込んだりします(これは「親・大人」だけでなく、「先輩」「社会人」「プロ」「役職」「夫」「妻」など、様々なものに、急激に「ならなくては」「そう振る舞わなくては」と思った瞬間、起こりやすいことです)。

「しっかりしないと!」と思うあまり、「こうでなくてはいけない・こうしなくてはいけない・こうするべき」に、急いで合わせようとしてしまう。周囲の親・大人に仲間として認められ、受け入れられようとするあまり、「思考回避」状態に陥ってしまう(「自分で考える」ことは、しばしば、周囲の人々の共通認識や既存のパターンに疑問を投げかけることにもなり、人間は集団に属そうとする時「それぞれ個人が考えることを牽制し合う事がある」からです)。

要は、自分の考えや想いを、自分自身で充分に「深めない」うちに、「考える暇なんてない」を合言葉に、「立ち止まってなんかいられない・悩んでなんかいられない」と、互いに暗示をかけていってしまうのです。

その時々で「反射的に判断する」ことが増え、子供に対して「小さな力を行使」せざるを得ない日々が続くと、大人はついつい、「悩まなくなった・迷わなくなった・ブレなくなった」という錯覚、子育てを通して自分が「大人になった」という錯覚、「以前よりも強くなった」という錯覚を抱きやすいものです。それが子供に対して、「うまくいっているように思えたら」、周囲の親たちも同じようにしているようだったら、「何かが問題として形にならない限り」、自分自身の思考や行動のパターンには、気付くこともできなくなってしまいます。

悩んだり迷ったりブレたりするからこそ、この社会に何が起こっているのか、自分に何が起こっているのか、気付いたり考えたりすることができる、という側面もあります。子供は、時代の「メッセンジャー」のようなもので、子育ての中で度々起こる、「立ち止まらざるを得ない体験」は、大人が「錯覚という落とし穴」に落っこちる前に鳴らされる、お知らせのようなもの…なのかも知れません。錯覚に陥りそうな罠に近づいている時、子供は(もちろん、そうとは自覚せずに)「お知らせ」を鳴らし続けるように、行動に出るものではないでしょうか。


2)ゆるめるから、色々見えてくる、見えてくるから、色々考える

今の社会では、何かと人々は「強く」なりたがっています(つまりそれは「弱い」からなのですが)。しかし「強くなろうとすると、こわばってしまう」のが人間、「つよい」と「こわい」は日本語で元々同じイメージの言葉ですね(疲れて筋肉が固くなったのを、「こわい」と表現する地域もあります)。それ故に人は「強くなろう」とすると、しばしば自らを「固めようとしてしまう」ものです。

筋肉があれば強そうに見えるかも知れませんが、強い武道家になるのと、強そうに見えるボディービルダーになることは違います。

同じように、経験を通して結果的に「つよくなる」ことと、「つよくなろう・つよいと認められようとして、つよい行動をとる」ことは、全く異なります。経験を通して結果的に「しっかりする」ことと、「しっかりしよう・しっかりしていると認められようとして、それらしい行動をとる」ことは全く異なります。すごい人の言動と、すごいと思われたい人の言動には、大きな開きがあります。後者は、どこまでいってもフリですから。

もちろんフリでも、状況によっては「うまくはたらく」ことはあるかも知れません。しかしやはり、「賢い人の行動」と、「賢いと思われようとする人の行動」は異なり、「意志の強い人」と、「単に融通がきかない意固地な人」は異なります。強く見える人(見せてる人)、自分が強くなったと思い込んでいる人が、実際に強いとは限らないのです。

人間は未成熟であればあるほど、強くなりたがります。強さを持ち得ていないから、強くなりたいと願うのです。強くなろうとすると、大半の人々がその時点での知見・経験だけで自らの思考を固めようとしてしまい、「自信たっぷりに判断したり、選択したり、意見が言えたりする人」が、「大人」であるかのように思い込んでしまいます。そこで精神が「反射的にこわばり」、感性・思考・行動を「ただ固めていってしまう」人は、少なくありません。

考え方や姿勢に、「しっかりとした軸」を持ち得ることは、大人として大切なことかも知れません。しかし結果として内面に軸を持つことと、軸があるかのよう振る舞おうとすることは別です。自動車のハンドルには、極端な運転にならないように、少しばかり動く「あそび」と呼ばれるものがありますね。同じように、思考にも「あそび」を作り、ガチガチに固めないでいる方が、かえって自由がきくしコントロールしやすいものです。「あそび」と軸とは表裏一体で、適度な「あそび」が軸を保っている、とも言えるでしょう。

だから昔から、知恵のある人間は、自分の思考が固まりかけたら「知らず知らずのうちに、自身の意識に振動を与える経験を自ら得ようとします」。実際、ああかも知れないし、こうかも知れないのですから。ブレないことも立派かも知れませんが、ある意味人間は、内面を充分に熟成させるまで、何度も何度も「ブレるからこそ」、その人が見つけるべき何かを、探し続けられるのではないでしょうか。

また、「ゆるめる」と「ゆるす」は、元々同じイメージの言葉です。自身の思考をゆるめることができる人しか、自分や他者を、ゆるすことはできません。「ゆるせる」人しか、他者の中から何かを「見い出す」ことはできません。だから、「あぁ、ブレたらダメなんだ」「しっかりしなくちゃ」と思い過ぎることはありません。悩んだり迷ったりブレたりすることは、ある意味、視野を拡げ、他者をより理解するための知恵でもあるからです。

親・大人として「至らない」と思って、自らを卑下することもありませんし、「~らしく振る舞わなくては」「~だと認められなくては」と、気張ることもありませんね。その時々の身の丈でベストを尽くせば良いだけで、「今の自分の身の丈に、居座らなければ良いだけ」なのだと思います。

世の中では、実際多くの人々が「フリ」をして暮らしています。類型的で、典型的な「フリ」が出来る人、それが上手な人は、周囲の人々から「そうであるかのように」認められているかも知れません。しかしそれは、周囲の人々が、そう受け取り、そう扱うから、その人たちがそう見える、というだけの話…「意志が強そうでサッと判断ができる人」が、ただ単に「視野が狭い故に、判断が早いだけの人」だったりもします。

「色々見えない人」「色々見ようとしていない人」に限って、自分はすぐに考え、すぐに判断でき、すぐに行動できると早合点するものです。悩まない・迷わないようにしているつもりが、実は「単に深く考えられなくなっている」。色々なことが見えてきたら・色々なことを見たいと思ったら、悩んだり迷ったりするのはむしろ自然なことだと思います。

「しっかり・する」ということを、いきなり「動じないこと/ブレないこと/はっきりとした判断と態度を示せること」であるかのように捉えず、「しっかり見て/しっかり時間をかけて/しっかり考えること」と捉えた方が良いですね。「悩む・迷う・ブレる」というような表現も、できるだけ使わないようにして、「子供のこととなると、色々考えてしまう」くらいの言い方に、留めておく方が良いと思います。

言い方を工夫してみるのは大切です。「自分の状態を言い表す言葉で、人間は知らず知らずのうちに、自分を規定してしまう」ものです。「かんがえる」という言葉は、もとをただせば「か・むかう」という言葉、それはつまり「二つのものを向き合わせる」、「何かに向き合う」ということです。悩む・迷う・ブレるとは、根本的に異なる言葉です。


3)答えは、出すものじゃなくて、時間をかけて、創造してゆくもの

ここで「考える」ことと、「答え」について、「考えて」おきましょう。「答えを出すために、考える」「考えるからには、答えを出さなくてはいけない」…そう思い込んで、考え始めてしまう人は多いのではないでしょうか。

しかしそれは、「学校でやらされてきたテストのやり方が、そうだった」というだけですね。僕たちはあまりにも長い間、「問い→考え→答え」という図式に慣れ親しんできてしまいました。この図式が習慣化してしまうと、答えを出すことが目的で、答えを出すことは良いことで、早く答えを出せることや明確な答えを出せることは賢いこと…であるかのように、思い込むようになってしまいます。

答えは「思考の終着点」で、思考時間(悩んだり迷ったりする時間)が短い程、賢くて効率よくて経験豊富でクールな人のように思い込んでしまいます。その結果、多くの人が知らず知らずのうちに、「考えること(か・むかうこと)をスキップし、深く考えなくなってしまう」、「答えを出した瞬間から、それについてあまり考えなく(か・むかわなく)なってしまう」のです。

儲けることが目的になり過ぎると、次第にただの効率主義に陥り、労働時間短縮に簡易化にコストダウン、その結果世の中には安易でチープな商品ばかりが溢れます…就職が目的になり過ぎると、効率よく単位が取れてコネや内定が得られれば良いだけになり、学問の内容はどうでもよくなります…到着することだけが目的になると、停車駅は少ない方が良くて、できれば停まらないで欲しくなります…どれも同じことですね。

また人間は、答えを出そうとすることによって、「最初の問いと、自分が出した答えが、実際に結びついているかのように錯覚してしまいます」が、考えた末に出した答えが、問いに直結しているとは限りません。人間は思考する間に、「いつの間にか、問いをずらしてゆく事が往々にしてある」からです。

そして、答えを出したと思ったら「思考タイムは終わったかのように錯覚」し、それっきり考えるのをやめてしまう人も多いのですが、答えを出す(結論を出す)ために考える(か・むかう)のだとすれば、それはまるで「考えることを止めるために、答えを出そうとする」ようなもの…「向き合うのをやめるために、一時的に向き合う」ようなものになってしまいます。考える(か・むかう)とは、そういうことではないですし、一つの答えを出した気になっても、問いはどこかで持続してゆくことの方が、人生には多いものですね。

相手が子供であっても大人であっても、人と人の関係では、考える(か・むかう→向き合う)こと自体が一つの答えであり、考え続ける(か・むかい続ける→向き合い続ける)こと自体が一つの答え、その時々で「小さな答え」を出しているかのように行動しつつも、そうやって「考え(か・向かい)続ける」のが、関わりの中では答えでもあるということです。答えという結果に向かって考え、答えを出したら思考終了、それは「心の底では、考えるのはイヤ・できるだけ思考したくない・考えるのは面倒くさい、と思っている」ようなものです。

子育てはよく、「待ったなし」と表現されますが、実は「待とうとしていない」のは、子供自身でも子供が置かれた状態でもなく、「大人の思い込み」「大人が無疑問に受け継いできたシステム」の方ではないでしょうか。「待ったなし」を、「考える暇なんてない」に置き換え、あんまり「考えなく(か・むかわなく)なってしまう」ことが、世の中では習慣化しています。その都度答えを出したような気になって、そこからそれ以上「向き合わなくなる」ことが、習慣化しているという訳です。

もちろん、その時その時、小さな答えと言えるものを出さなくては、前に進めないような現実もあるでしょう。しかしそれは「便宜上の答え・とりあえずの答え」でしかなく、本当の答えではないという確認が、常に必要です。反射的な判断が続くと、本当の意味での判断力は、奪われていくものです。立ち止まる自由・じっくり考えてみる自由がいつもあり、そんな自由が創造力とつながってもいるのです。

やきもの(陶器)を作ったことのある方は「ろくろ」をご存知だと思います。グルグル回る土の塊に下手に手を出すと、形は一気に崩れてしまいますが、いつまでも触らないでいたら、陶器はできません。手を出し過ぎても、形はおかしくなっていきますし、キョロキョロ隣を見ながら真似してても、同じような物以下のものしか作ることは出来ません。

しかし不思議なもので、ちゃんと向き合って、手を添えていってやると、形は素直に、自ずから生まれてくるものですね。土の方が、手の添え方を導くようになる。もちろん、作る側の技術やイメージも大切ですが、その作り手の技術やイメージも、土の方が求め導いてゆくような側面があります。そして形ができたならば、その後は自分の手を離し、火に委ねる段階を経なくては、陶器は完成しません。

火に入れる前に出した答えが、そのまま本当の意味での答えになる訳ではない、そして実際、完成した陶器も、その後使われてゆくことで、更にその先の完成に向かう訳で、もしかしたら(小さい答えはその都度あれど)、終着点としての答えは、僕たちの生きている時間の幅を超えたところにあるのかも知れません。

「答え」というものは、自分の行動の積み上げで、「徐々に創造されてゆく」ものと言った方が良いのでしょう。子育てにおいては、その時々に出す小さな答えは便宜上のもの、本当の答えは子供の成長と共に徐々に創造されてゆくもの…そう「考えてみる」方が、良いのかも知れません。

子供の個性に関しては、それが本人にとってどうはたらいてゆくのか、人間関係の中でどうはたらいてゆくのか、なかなか簡単に予測したり判断したりできるものではありませんね。個性が形を成してゆく過程では、周囲の人間が、その都度「安直に答えを出そうとしたり意味を与えようとしたりしない」で(自分たちが描きやすいストーリーの中に子供を組み込もうとしないで)、ただ「最大の力で、眺め続けようとする」ことが、大切なのではないかと思います。そういった姿勢や行動こそが、子供へのメッセージとも言えるのでしょう。

「導くこと」「答えを出し・答えを示し・答えを与えること」だけが、親や大人の役目ではなく、子供にとっては、「親や大人が、自分に向き合い続けてくれること」「それを常に分からせてくれること」、それが一つの答えなのだと思います。特に後者の方は、親や大人の表現力にかかっています。言葉だろうが行動だろうが、「表現」というものには、人間の成熟度がストレートに表されます。親の責任というものに関して言及するなら、この「表現」を置いて、他はないのではないでしょうか。

親は、片方の手に「自分が経験してきたこと・自分が受けてきた教育」、もう片方の手に「今の社会状況や今の教育」、そして真ん中に「今の自分が持ち得ている考えや想い」を抱きながら、その間を「行ったり来たりしてしまう」ものです。そんな風に「行ったり来たりできる」という事は、今をちゃんと生きている、という事でもあり、行ったり来たりの分だけ道は踏みしめられ、その人の思慮は深くなってゆくものだと思います。

だから、親が「ああかも知れない・こうかも知れない」と迷ってくれること、「AはB」と決めつけてこないことが、子供にとっては救いになることもあると思うのです。それは大人同士の関係でも、同じことかも知れませんね。

答えを創造してゆく過程は長く、その先で「種明かし」をしてくれるのは、あれこれ責任を果たそうとしている親ではなく、未来の子供の方です。その時その時には、「起こっていることの意味」なんて、親にも子供にも、誰にもわかりません。だからこそ、「か・むかい」続ける(考え続ける)ことが大切なのでしょう。

その時々の行動が、正しかったか間違っていたかなんて、その時々には判定できないことがほとんどです。小さな答えは小さな答えでしかありません。変化というものは常にそこにあり、進行しているものなので、小さな答えを「出しているような」気持ちになることで、「考える(か・むかう)」ことが途切れてしまった時、人間は変化に後(おく)れを取り、そこから知らず知らずのうちに受け身になってしまいます。

答えを出しているような錯覚に陥らず、常に「答えを創造していく過程に自分はいる」、そう考える方が良いのでしょう。いつの日か、子供が種明かしをたずさえて、それを見せてくれる日が来ます。親や大人が、「そう確信している」ことを、子供に向かって表現し続けることが、成長を見守るということなのかも知れません。

長くなりました!それでは次回からは7月30日の予告編…またお会いしましょう。

報告③『変化を感じたら、変化の中に飛び込んで、変化そのものになりましょう!』


前回に引き続き、第一回(4/15)「時代は開くことになりました!」にお越し頂いた方々との間で交わされた、質疑応答への補足シリーズ…2回に分けてと言っておりましたが、長くなってしまい(笑)どうやら3回になりそうです。ご興味のある方は、YouTubeでの収録映像(録画安定版1~4)も、ご参照下さい。


◆「先が見えない世の中になった」「これから社会はどうなるんでしょう」「時代はどのように変わってゆくと思いますか」

これに関しては、まず『先を見ようとする発想をやめてみる』『社会がどうなってゆくのかを案ずるのではなく、どんな社会にしていきたいかを考える』『時代がどう変わってゆくのかを案ずるのではなく、どんな時代にしてゆきたいかを考える』ことを、お奨めしたいと思います。

それはつまり「先を見たいと思う気持ちは、何故わいてくるのか」「何故、誰かに未来の予測を聞いてしまうのか」、まずはそこに疑問を持ってみませんか、ということでもあります。

「先が見えない」「これから、どうなるの」という不安や関心は、本質的に「受け身な思考」から生み出されます。「世の中・社会・時代をつくっているのは、少なくとも自分ではない」「世の中・社会・時代は、自分ではない、どこかの連中がつくっている」「自分ではない、大きな力がつくっている」…そのような思い込みが、心の奥底にないでしょうか。

僕たちの中の「自分たちは受け止める側だ」という初期設定が、僕たちにそう思わせています。それこそが、僕たちの創造性を阻害しています。

社会の在り方や時代の流れ…自分たちはその影響を受け、煽りをくらい、「ある時は得をし、ある時は損をする」側にいる…そのように強力に信じ込んでいるから、「対策」を立てたがる訳です。よりよく対応するため、先を見たくなる。できれば「より知っていそうな人」や「より考えていそうな人」に、「これからどうなるか、教えて欲しい」と思ってしまう。

しかし受け止める側に立つと、人間はどうしても無力になってしまいます。
ここらあたりで、思いきって「つくる側に自分もいる」という意識を持ってみませんか。

今の時代について、「先が見えない時代だ」という印象を持っている方は、実際多いのかも知れません。しかし考えてみれば、実は「ほとんどの時代がそうだった」のではないでしょうか。ここしばらくの数十年間を振り返ってみても、ある場所で生きている人々にとっては・ある状況下で生きている人々にとっては、「ずっと先が見えない状態だった」はずです。

紛争が続いている地域、自然災害が続いている地域、社会システムが大きく変化し続けていた地域、環境が大きく変わり続けている地域。家庭環境が激変した人々、生活環境が激変した人々、人間関係が激変した人々、逃れられない状況下にあった人々、閉塞的な状況下で闘っていた人々、手探りで仕事をしてきた人々、新しい活動の中で試行錯誤を続けてきた人々。

確かに現代は、「より大きな変化・転換を迎えている」のかも知れません。しかしそれも実際には、「既に進行していた変化」が、多くの人々に見えやすくなってきた・多くの人々にとって無視できなくなってきた・多くの人々の暮らしに直接的に関わるようになってきた…というだけのことです。

変化を起こしてきた人も、変化に気付いてきた人も、変化の中を生きてきた人も、沢山いました。しかしそれをはるかに上回る膨大な数の人々が、これまで「先が見えているような気にさせられ」「誰かが見せてきたものや、どこかで見せられたものを、そのまま受け入れ、何となく鵜呑みにしてきた」。

自分たちが生きている間には、世の中そんなに変わりはしないだろうという思い込み。遠い所では様々な出来事が起こっていても、近い所ではそんな事は起こらないという思い込み。ファッションや有名人やテレビ番組はその都度入れ替わってゆくだろうけれど、社会の価値観や人生設計の形は、それ程変わらないだろうという思い込み。便利なものが増えたり、システムが少々刷新されるかも知れないけれど、暮らしはそんなに変わらないだろう、という思い込み。

自分でもそう思っていたかったから、そう思い込まされてきた。思い込むことができたから、「頑張ってこれた」。頑張り続けるために、疑問をできるだけ抱かないよう努めてきた。

僕たちはこの社会で、「活動的な消費者」として生きることを、幼い頃から叩き込まれてきています。家庭・地域・学校・社会・メディアを通して、「そうなるように常に誘導されています」。そのため、今や「貨幣というモノサシを通さないと、物事の価値を測れなくなってしまった人々」が、この社会の大半を占めるようになってしまいました。多くの人々が、経済的な問題・状況が「自分自身の財布の中身に直接関わって来るまで」、社会や時代の変化や徴候に、気付くことができなくなってしまったのです。

気付くことができたとしても、大概の人がその直観・直感を、脇に置いてしまいます。同じく幼い頃から、「自分を納得させ、思考を停止するための呪文」も叩き込まれているからです。自分で感じ、そこから知り、考え、行動することよりも、周囲の人と呼応し、同意し合い、歩調を揃え、社会の出来事を受け手側として時折話題にしながら、その話題を仲間内で共有し、「いつものやりとり」を交わすことしかできなくなっているのです。

面倒なことは考えたくない、考え出してもキリがない、自分が知ったところで何も出来ない、第一自分にはそれほど関係がない、関わると責任も生じてしまう、行動すると損するかも知れない、自分だけ損はしたくない…「自分のことで忙しい・それどころじゃないから」、そんな風に言い訳しながら、肝心の自分のことから自動的に目を逸らしてきたのではないでしょうか。

周りの大半の人々が同じように生きていたなら、疑問も湧かないし、その中で「ある程度うまく立ち回れていたら」、それに関して改めて考える事もできません。「自分にはあまり関係ないことだ」と、その都度距離を取り、いつもの「どうでもいいゲーム」に精を出してしまいます。その一方で、自分や自分を取り巻く環境に深く関わってくる「兆し」、「起こりつつある変化の兆候」を、次々に見逃してしまう。

現代社会に生きる人々は、ある一つの物語(現実)に引きずり込まれて、その中を生きています。日頃、自分の持つ権利や自分が体験する損得には敏感なのに、「その物語自体に対しては、信じ難いほど受け身」です。

「みんなで支えている」物語を、「みんなで共有している」ことによって、「みんなの中に居続けていられる」。しかしそれは視点を変えれば、「みんなで大きな穴を掘り、みんながその中から抜け出せなくなっている状況」でもあります。

人生の節目ごとに、目の前に並べられる選択肢のどれかを上手に選んでゆけば、大体「みんなと同じような、そこそこの人生」が送れる。自分自身の人生について・社会の行く末について、その程度のイメージしか持ってこなかったという方も、案外多いのではないでしょうか。

しかしそれこそが、特定の物語の中での架空の設定に過ぎないとしたら…現代という限定された時間の中、経済至上主義国家、新自由主義地域という限定された空間の中での、壮大な幻想だとしたら…膨大な数の人々が共同で描き続けていたというだけの、ただの一時的な人類の妄想だったとしたら?

幻想から目を覚ますことは、良いことではないでしょうか。それとも「自分が棺桶に入るまでは、その幻想が続いていたら良かったのに」「幻想だろうが妄想だろうが、このまま夢を見ていたかったのに」と思う人の方が多いでしょうか。


ここで、「変化」について考えてみましょう。一つの現象が形と成って、「誰の目でも確認できるようになる」までには、時間を要します。つまり「変化が確認できた」ということは、実際には「その変化が始まってから、随分時間が経っている」ということですね。

夜寝て、朝起きて、陽が高くなって庭に出たら、知らない間に庭の花のつぼみが全部咲いていた…というようなものです。「開花」は、気付いたその時よりも、ずっと前から始まっていたはずです。

明らかな状態・無視できない状態になって初めて変化を確認する人々、そしてより多くの人々と共有・同意できる状態になって初めて変化を認める人々は、「起こりつつあることに対して、常に受け身の姿勢」になっています。変化を起こす側の生き方ではなく、変化を受けとめる側の生き方になっている訳です。だから、「常に変化そのものから遅れをとってしまう」。

逆に、変化が世の中に「明確な形となって出現する」前に、その変化をとらえる人々も、少数ながらいます。そういう人々は、起こりつつある変化について気付き、気付いた瞬間からその中で行動しています。変化に気付くということは、「その瞬間から、自分もその変化の一部となる」ということで、人間は変化をとらえたその時から、変化そのものとなって、何らかの行動をせずにはいられなくなるものです。

しかし残念ながらその行動は、変化を否定したい人々、変化したくない人々によって、孤立させられてしまいます。「変化に気付く人・変化に飛び込む人・変化そのものの一部となる人」が、ある一定以上の数になるまでは。そう、不動のようにも見えていた現代社会という名の大きな物語(現実)は、ここにきて誰にとっても「どっちに展開してゆくのか、分からなくなってきています」。まるで時代そのものが、「迷っている」かのようです。当然のことながら、その物語の中で舞台に立ち、役を得ていたはずの人々・台本通りに生きていた人々も、どう立ち回ったら良いのか、分からなくなってきています。

迷っている物語自体が(膨大な数の人々によって支えられていたとはいえ)、本来「架空のもの」なのですから、依然としてその迷っている物語の中で居場所を見つけようとしていたなら、当然自分自身も迷いという架空の物語の中を生きることになってしまいます。

考えてもみて下さい。子供の頃、周囲には「社会の物語・大人や親の物語」がありましたが、皆さんは自分たちの「子供の物語」の中を、生きていたでしょう。時々大人が押しつけてくる物語よりも、自分たちにとっては現実味があって、大事な「それぞれの物語・子供たちの現実」…それはつまり、皆さんは子供の頃、「自分を取り巻く物語はさておき、自分たちも物語を描いていた」ということです。

物語を描くということは、「世間とは関係なく生きる」「周囲の人々とかけ離れた現実を生きる」という意味ではありません。世の中には様々な物語が同時進行しており、全ての物語が関わり合っているのですから。たとえば、都市の物語と田舎の物語、人間の物語と野生動物たちの物語は、同時進行していますね。しかし、都会の物語が田舎の物語を侵食し、人間の物語が野生動物たちの物語を侵食し、そこに一つの物語しかないようにな錯覚に陥ってしまったら、どうなるでしょう。一つの物語(現実)だけがあるような錯覚に陥らず、自らの物語を描く力も見失わないことが、大切なのです。

これからの僕たちに必要なのは、「先を見ようとする」ことではなく、ましてや「どうなるのか誰かに尋ねる」ことでもなく、「自ら先を描こうとする」こと。

大人の中に自分の居場所を探そうとするだけの子供が、どれだけ「生き生きできなくなるか」ご想像下さい。言われるままにしか描けなくなった子供の絵は、どんな絵になるでしょう。自分が何色を塗ればいいのか、尋ねてばかりいる子供の絵は、どんな絵でしょう。誰かの絵に色を重ねることしかできなくなった生き方・指示された色しか塗れなくなった生き方になってしまったら、なんだか残念ですよね。

色を重ねてゆくのは僕たち、それぞれが絵を描くことができます。その絵が全体で見た時に、どんな巨大な絵になるのかは、まだ誰にも分からないのです。だから、尋ねても意味はありません。それぞれの人が、自分が描きたいようにしか答えてくれないし、そのようにしか答えようがないのです。

だから、変化を感じたり、変化を見て取ったならば、いつでも遅いと思わないで、その瞬間から「自分もその変化の中にいる=つまり自分もその変化の一部」なんだと認識し、どんな世の中を描きたいか想い描き、自ら描く側になりましょう!

つづく

報告②『伝わりゃイイってもんでも、ないかもね!』

第一回エハン塾文化編「時代は開くことになりました!」では、会場の方々からも率直な意見や質問が飛び出しました。報告編②からは二回ほどに分けて、会場の方々との対話に少しばかりの補足をしてみたいと思います。ご興味のある方は、YouTubeでの収録映像(録画安定版1~4)も、ご参照下さい。

※ご意見・ご質問は(全て記載すると長くなるので)実際のものから簡略化・意訳しています。


◆「言葉(日本語)の間違った使い方」って、どんなこと?

これは、これから度々触れることになるトピックですね。僕たちは、一人で思考する時も、誰かと会話する時も、「特に意識しないで(注意を払わないで)」言葉を使っています。でもその「言葉」の、一つ一つに対する認識を深めることが、僕たちの思考や会話を「生まれ変わらせる」ことになるのだとしたら…

「自分を変えたい・今の暮らしを変えたい・このままではいけない気がする」、そんな想いをお持ちの方は多いと思いますが、「具体的に何からスタートすればいいのか、何ができるのか、ピンと来ない」という方も多いのではないでしょうか。

「普段使っている言葉を見直すこと」「言葉や言語表現に対する認識を深めること」。言葉は僕たちにとって「最も近くにある道具」の一つですから、その道具についてより知ろうとすることは、普段僕たちが「どのようにして思考を形作り、どのようにして関係を形作っているのか」を知ることでもあります。言葉は誰にとっても身近なものですから、この方法は誰にとってもスタートしやすく、大きな力を発揮するのです。

実際僕たちは、普段使っている言葉の「本来の意味や成り立ち」を、ほとんど知りません。多くの人々は「一つ一つの言葉について、知った上で使っている」のではなく、「それぞれの言葉を、どんな時にどんな風に使えば会話ができるのか、知っているだけ」なのです。僕たちは子供の頃から、周囲の人々が使う言葉や言語表現を耳にしながら、「その使い方を、真似してきただけ」なのです。でもその使い方が、根本的に間違っていたとしたら、どうでしょうか。

「使っている道具について知らないまま、その道具を使って何かを作り続けている」というのは、考えてみたら少々危なっかしいことです。たとえば子供の頃、周囲の人たちがノコギリで料理を作っていたからといって、自分もそれを真似てノコギリで料理を作るようになったら、料理はどんな風になるでしょう。周囲のみんなが当たり前のようにノコギリで料理していたら、「料理が何だかおかしいぞ」ということにも気付きにくいし、「ノコギリは料理の道具ではない」ということにも、気付けないかも知れませんね。ましてやそれが何世代にも渡ると、いつの間にか「料理はこういうもんだ」ということになって、もはや疑問も湧きにくくなります。

だからこそ「言葉の使い方を見直す」ことは、必要でもあります。知らない間に、何世代にも渡って、ノコギリで作る料理のようなものを、料理と思い込んできたのかも知れないのですから。

僕たちは、自分に関わる重要な言葉まで、「あやふや」なまま、使っています。たとえば「心、気持ち、意識、精神、考え、思い(想い)」。「自分・自我・自信・自由・自然」といった、「自」を含む言葉についても、意味や成り立ちを知って使っている人は、どれだけいるでしょう。明治以降、外国語に当てはめて使われるようになった日本語には、本来の意味とズレたまま使われているものが多く、中には全く異なる意味で使われ続けている言葉もあります。

「元の意味と違っていたって、今伝えたいことが伝えられていて、それがお互いに通じていたら、別にそれでいいじゃないか」という方も、おられるかも知れません。

「伝える・伝えない/通じる・通じない」ばかりに注目するのが、現代社会です。「知らないで使われる言葉」や「あやふやなままで使われる言葉」が、僕たち一人一人の「個人の中」で、「何を作ってしまっているのか」の方が、よっぽど重要なのです。そしてそれらを使うことによって、僕たち一人一人が「社会の中」で、「何を行き交わせているのか」に注目しないと、僕たちの社会が抱えている問題の根源は見えてきません。

伝えるとか通じるということが、一番重要なことではないのです。今の社会では、個人個人が作り上げている「思い込み」や「勘違い」、「妄想」や「不安」が、互いに伝えられ通じ合い、行き交っているのですから。

言うまでもなく、言葉は「それが指している対象そのもの」ではありません。互いの間でその対象を表し、互いの間でその「イメージ」を共有するための、便宜上の音や形…つまり記号でしかありません。山という言葉は、山そのものではありませんし、その言葉によって想起される山のイメージも、本当は人それぞれでしょう。それらは「それぞれの個人の内で描かれたイメージ」であって、「山そのもの」ではありません。

しかし人間は、言葉という記号を使って会話というやり取りをしながら、「ほぼ同じイメージを互いに交わすことができている」と思い込み、「ほぼ同じようなイメージを互いに共有できている」と思い込み、そしていつの間にか、自分たちによって共有されている(と思い込んでいる)イメージが、「山そのもの」であるかのような錯覚を抱くようになるのです。「山そのもの」よりも、自分たちの間でイメージが「伝わった」り「通じた」りする(と思われる)ことの方が、自分たちにとって重要であるかのような、勘違いをしてしまうのですね。

つまり、Cさんのことを話すAさんとBさんの間では、「Cさんそのもの」よりも、AさんBさんが勝手に描くCさんのイメージ(たとえば噂や悪口など)が、AさんとBさんの間で通じることの方が、重要であるかのようになってしまうのです。こうして言葉や会話は、「伝わったらいい」「通じたらいい」と思った瞬間、実存と妄想の逆転現象を引き起こし、「妄想であっても幻想であっても、誰かと共有できていると思えれば、それが実存・真実であるかのようにして行為に及んでしまう」…そんな人間の安直で危険な一面を、社会のアチコチで浮上させてしまうのです。

だからこそ、意味や成り立ちを知らないままで使われる言葉、深く考えないで交わされる言語表現は、本質的に「呪い」として機能してしまう場合が多いのです。それらの言葉や言語表現、それによって形作られている思い込みや妄想は、「知らず知らずのうちに」、相手や自分に作用し、相手や自分の思考・行動を、制限してしまうからです。

「そんなことしてたら、そのうち後悔するよ」「きっと泣きを見る」「そんなの無理に決まってる」「あなたのような人は…だ」等は、その代表格かも知れませんが、良い意味のように聞こえる表現や、褒め言葉なども、呪いの機能を持っていますね。たとえば「Aちゃんはすごいね、…になれるんじゃない?」等の、「良い意味だけど無責任な」持ち上げ表現等がそうです。その表現の向こう側にある呪いの機能を、本能的に察知するからこそ、「いやいや」と否定したくもなる人もいる訳で、それはその人が謙虚であるとか、ヒネているということではないのです。他者が「勝手に・安直に描いたイメージ」を、自分に投げかけてきたり、共有させようとしたりすることに、賢明な人は慎重になるということです。

他者が描くイメージ・決めつけたイメージを、自分自身のこととして受け取ることにより、そのイメージの周りを周回してしまう思考回路が、受け取った人の頭の中には自動的に作られてしまうのです。バカじゃないの・ダメだ・使えない・うざい・キモい・変なの・意味不明・暗い・弱い・情けない・子供ね…なんていうのもそうですが、すごい・才能あるね・素質あるね・天才じゃないの・賢いね・優しいね・強いね・かっこいい・若い・大人じゃん・男らしい…全てが「呪術的なはたらき」を持っています。

呪いには自覚しているものもあれば、無自覚なものもあり、ほとんどの場合、人々は無自覚に「相手にも自分にも呪いをかけてしまう」ものです。「呪いなんて、太古の昔のことだ」なんて思っている方もおられるかも知れませんが、実際、現代社会でも相変わらず呪いは行き交っています。

たとえば「自分に負けるな」等は、あまりにも便利使いされている言語表現ですが、自分という言葉に関しても、勝ち負けという言語表現に関しても、あまり考えないまま使っている人が多いですね。使っている人を目にして、その「使い方」だけを学習してしまうからです。「自」「分」を、更に「強い自分」や「弱い自分」、「ポジティブな自分」や「ネガティブな自分」、「愛されるべき自分」や「ダメな自分」に分け、そこで勝ち負けを創り出そうとしている人は、小さな「自分」の中で、一体何のゲームをしているのでしょうか。

「使い慣れている言語表現」「慣れ親しんでいる、便利な言い回し」ほど、要注意です。それらは、本来の意味を離れて機能しているものがほとんどだからです。使っているものから自由にならずして、自由にはなり得ません。言葉や言語表現を意識せずに使っている人々は、(自分自身や相手の)言葉や言語表現に、踊らされてもいるということです。

また多くの人々は、言語表現に含まれているトリックについて、あまり日頃気にしていません。たとえば「目的・手段」「勝ち・負け」「自信がある・ない」といった言葉表現は、セットになり、対義語のように使われています。しかし実はそれらは、「対していない」のです(これらについては、後の講座で話が出ると思います)。対していないものを、対しているかのように使い続けたら、僕たちの思考・互いの関係・僕たちをとりまく社会環境は、どのようなものになるでしょう。

自覚していようが、していなかろうが、言葉・言語をはじめとする表現は、僕たちの思考・関係・社会環境を、文字通り創造しています。「そのことを認識しないまま、使い続ける」ということ、それ自体が、本当は言葉の間違った使い方なのかも知れません。言葉という道具を見直し、使い方を変えることは、そのまま、個人の「創造力」や、社会の「創造力」を、生まれ変わらせることでもあるのではないでしょうか。

プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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