2016/03/31
いい加減、『あきらめ』ましょう!!
「 “ 本当の私” を探す」「“ 本当の自分” を見つける」という表現を、世間ではよく耳にします。でも考えてみて下さい…「私」や「自分」に、“ 本当” とか“ ウソ” とかが、「本当に」あるんでしょうか。実は世間では、“ 本当の私” “ 本当の自分” という言葉が、日常的に「全く違う二つの意味」で使われています。
一つめは「こうだったら、みんなに認められるかも・受け入れられるかも・愛されるかも~という自分」。自分で許せて、納得できて、自信を持てそうな自分のことですね。
二つめは「こんなところを人に知られたら、嫌われるかも・愛されないかも・わかってもらえないかも~という自分」。日頃、「あまりみんなに見せていない自分」のことです。
これらは一見、全く逆のイメージですが、人はその時の気分や状況で、いずれか片方を「本当の自分」と呼んでしまうのです。
では実際、どちらが「本当の」自分なんでしょう。
「みんなに見せていない普段の私」が本当の私なら、「みんなに見せている私」はウソの私?「本当の自分」を見つけるまでの人生は、「ウソ・いつわりの人生」?
言葉の使い方には、いつも「罠」があります。本当は「“ 本当の私” も“ ウソの私” も、ありません」。もし何らかのフリをしてしまうなら、それは「そういうフリをしたいという想いが“ 私” の中に在る」というだけのこと。
人間は、“ 私”“ 自分” があまり「見えていない」時に、自分自身の中に「私①とか私②を、次々に生産してしまう」のです。
「じゃあ、“私”が見えてきたら、“本当の私”とか“ウソの私”とか、なくなるの?」
…そう!少なくとも“私”の全貌が見えてきたら、次第に「本当の私」という言葉は使う必要がなくなってしまいます。だって、そこには「本当の私」しかないんだから、その人は「その人自身に見えてきた“私”」として、思考し行動するだけになります。
自分ほど、自分を楽しませてくれるエンターテイナーはいません。「今まで、自分の中で、色んな自分が内戦を繰り広げていた…」という方もおられるかも知れません。でも、もう自分の中に国境線を引くがごとく、自分を“色んな自分”に分割してゆくのはやめましょう。自分①のフリをするのも、自分②のフリをするのも、それぞれにハマり込むのも、もうほどほどにして、それらを創り出してきた自分の創造力を、「どれどれ~」と眺めてみませんか。「時代は開かれることになったんですから」!
★ブログ三回目。だんだん前置きが長くなっていくような気もしますが、それは良いとして…
「文化の話はいつ出てくるのだろう?」と思っている方も、おられるかも知れません。でも実はこのブログ、ずっと「僕たちの文化」についての話をしているのです。
僕たちは、この社会で「うまくやる」ために、自分自身を、「見せられる私」と「見せられない私」、「見せたい私」と「見せたくない私」、「見せてもいい私」と「見せたらヤバい私」などに分割して、それらの上を浮遊しながら暮らしており、「いまだ“私”に着地できていない」のです。ちょうど、「どっちが正しいの?」とつぶやきながら、様々な情報や知識の上を浮遊して暮らし、「いまだ、ひとつひとつの“事実”に着地できない」…というのと同じことです。
では、どうして僕たちは、なかなか着地できないでいるのでしょう?それは、ただ「知ろう」とするよりも先に、「どっちが得?どっちが損?」を反射的・習慣的に考え始めてしまうからです。「本当の意味で“知る”」ことは、「自動的に次の行動を創造」してしまいます。そして行動することは常に、責任をともないます。それをどこかで「分かっているからこそ」、多くの人々は「知ろうとすること」「着地すること」から、とっさに逃れようとしてしまいます。
そんなに得したい?そんなに損がこわい?そんなに勝ちたい?そんなに負けるのがこわい?
本当は、損も得も、勝つも負けるも、ないのに。「本当」の中に飛び込めば、そこには本当もウソもなくなるのに。
この社会でスコアをあげることは、いい加減「あきらめ」ましょう!「あきらめる」とは、もともと「明らかに見る」という意味です。「あきらめ」ないと、見えてこないことがあるのです。「明らかに見ようとすること」は、感じること知ること…そして更に、考えることや判断すること、選択することや行動することを「変えてしまいます」。
僕たちが使っている言葉には、実はいろんなヒントが隠されていて、僕たちに「読みとられる」のを待っています。「文化力」と呼ばれるものは、実はこの「読みとる力」に支えられているのです。