いい加減、『あきらめ』ましょう!!

「 “ 本当の私” を探す」「“ 本当の自分” を見つける」という表現を、世間ではよく耳にします。でも考えてみて下さい…「私」や「自分」に、“ 本当” とか“ ウソ” とかが、「本当に」あるんでしょうか。

実は世間では、“ 本当の私” “ 本当の自分” という言葉が、日常的に「全く違う二つの意味」で使われています。
一つめは「こうだったら、みんなに認められるかも・受け入れられるかも・愛されるかも~という自分」。自分で許せて、納得できて、自信を持てそうな自分のことですね。
二つめは「こんなところを人に知られたら、嫌われるかも・愛されないかも・わかってもらえないかも~という自分」。日頃、「あまりみんなに見せていない自分」のことです。
これらは一見、全く逆のイメージですが、人はその時の気分や状況で、いずれか片方を「本当の自分」と呼んでしまうのです。

では実際、どちらが「本当の」自分なんでしょう。
「みんなに見せていない普段の私」が本当の私なら、「みんなに見せている私」はウソの私?「本当の自分」を見つけるまでの人生は、「ウソ・いつわりの人生」?

言葉の使い方には、いつも「罠」があります。本当は「“ 本当の私” も“ ウソの私” も、ありません」。もし何らかのフリをしてしまうなら、それは「そういうフリをしたいという想いが“ 私” の中に在る」というだけのこと。
人間は、“ 私”“ 自分” があまり「見えていない」時に、自分自身の中に「私①とか私②を、次々に生産してしまう」のです。
「じゃあ、“私”が見えてきたら、“本当の私”とか“ウソの私”とか、なくなるの?」
…そう!少なくとも“私”の全貌が見えてきたら、次第に「本当の私」という言葉は使う必要がなくなってしまいます。だって、そこには「本当の私」しかないんだから、その人は「その人自身に見えてきた“私”」として、思考し行動するだけになります。

自分ほど、自分を楽しませてくれるエンターテイナーはいません。「今まで、自分の中で、色んな自分が内戦を繰り広げていた…」という方もおられるかも知れません。でも、もう自分の中に国境線を引くがごとく、自分を“色んな自分”に分割してゆくのはやめましょう。自分①のフリをするのも、自分②のフリをするのも、それぞれにハマり込むのも、もうほどほどにして、それらを創り出してきた自分の創造力を、「どれどれ~」と眺めてみませんか。「時代は開かれることになったんですから」!

★ブログ三回目。だんだん前置きが長くなっていくような気もしますが、それは良いとして…
「文化の話はいつ出てくるのだろう?」と思っている方も、おられるかも知れません。でも実はこのブログ、ずっと「僕たちの文化」についての話をしているのです。

僕たちは、この社会で「うまくやる」ために、自分自身を、「見せられる私」と「見せられない私」、「見せたい私」と「見せたくない私」、「見せてもいい私」と「見せたらヤバい私」などに分割して、それらの上を浮遊しながら暮らしており、「いまだ“私”に着地できていない」のです。ちょうど、「どっちが正しいの?」とつぶやきながら、様々な情報や知識の上を浮遊して暮らし、「いまだ、ひとつひとつの“事実”に着地できない」…というのと同じことです。

では、どうして僕たちは、なかなか着地できないでいるのでしょう?それは、ただ「知ろう」とするよりも先に、「どっちが得?どっちが損?」を反射的・習慣的に考え始めてしまうからです。「本当の意味で“知る”」ことは、「自動的に次の行動を創造」してしまいます。そして行動することは常に、責任をともないます。それをどこかで「分かっているからこそ」、多くの人々は「知ろうとすること」「着地すること」から、とっさに逃れようとしてしまいます。

そんなに得したい?そんなに損がこわい?そんなに勝ちたい?そんなに負けるのがこわい?
本当は、損も得も、勝つも負けるも、ないのに。「本当」の中に飛び込めば、そこには本当もウソもなくなるのに。

この社会でスコアをあげることは、いい加減「あきらめ」ましょう!「あきらめる」とは、もともと「明らかに見る」という意味です。「あきらめ」ないと、見えてこないことがあるのです。「明らかに見ようとすること」は、感じること知ること…そして更に、考えることや判断すること、選択することや行動することを「変えてしまいます」。
僕たちが使っている言葉には、実はいろんなヒントが隠されていて、僕たちに「読みとられる」のを待っています。「文化力」と呼ばれるものは、実はこの「読みとる力」に支えられているのです。
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『思い込みと早合点』に、サヨウナラ

人生には、そこかしこに「落とし穴」が待ち構えています。それらは実に巧妙に掘られた「罠」です。誰が掘っているんでしょう?もちろん、僕たち人間です。

人間は落とし穴にハマると、誰かが自分の前を通り過ぎようとするのを見ただけで、不安を覚えてしまいます。そしてついつい自分がハマっている落とし穴に他の人々を招き寄せようとしてしまうのです。
そして「これで良かったんだよね?」「しかたないもんね?」「わかる、わかる」「そう、これで良かったんだ!」と、穴の中で互いにささやき合いながら、心の底から湧きあがって来そうになる疑問に、何度も何度もフタをします。「しょうがないじゃない」「世の中そういうもんでしょ」「食べていかなくちゃならないんだから」「選択の余地なんてない」「いちいち立ち止まってなんかいられない」「考える余裕なんてないでしょ」…思考を停止できる、甘美な決まり文句が穴の中では飛び交い続けます。

そんな人々にも、声をかけましょう。お互いに、穴から引っぱり出しましょう。社会の被害者で居続ければ自分はどこかで正しいと思っていられる…そんな時代は、とうの昔に終わっています。思いもかけない未来へ、ずっと先に歩んで行けることを、一緒に確かめましょう。「時代は開くことになったんですから」!

★さて皆さん、ブログ第二回目です。文化編にようこそ!
この文化編の企画に際して、エハンさんがこれからの時代のキーワードとして「直感・創造力・独立性」という三つを挙げてくれました。そこで僕は、「それらをジャマし、阻止しようとしている罠」について、皆さんと考えたいと思います。そこに向かうエネルギーをジャマしている「カラクリ」「落とし穴」に気付くことが重要だと思うからです。

まず僕たちが、何よりも先に取りかからなくてはならない落とし穴…それは「思い込みと早合点」です。これは人間生活の中で最大の罠の一つです。思考を停止させる誘惑、パターン化された反応、と言っても良いでしょう。

僕たちはすぐに「早合点」し、「疑問を放り投げ」、「会話を・思考を、終了させよう」とします。そうやって「互いの心を覗き込みあう前に」、それぞれがハマり込んでいる「いつものゲーム」(社会や個人の中にある、思い込みのシステム)に、さっさと戻ろうとしてしまいます。周囲の人もそうしているように見えるから、疑問なく「そうするもんだ」と思い込んでいるのです。

僕たちは、世間にあふれる「便利な言い回し」を使い、「パターン化された会話」を繰り広げながら、互いの思考が「ある深さ」以上に進まないよう、無自覚に、「牽制し合うようにして」暮らしています。そうやって「社会の思い込み」を、強化し続けているのです。

でも、そこから抜け出ることが出来たら、どんな人にも「直感と創造力と独立性」が備わっていることに、きっと気付くことができます。

「直感?創造力?独立性?…自分にはそういうの、多分ないなぁ~」と思われる方は、「どういういきさつ」でそんな風に「思い込まされてきたのか」「今も思い込み続けているのか」、考えてみませんか。そして「他の人にはないかも知れないけれど、自分には人よりあるかもな~」と思われる方も、「どういういきさつ」でそんな風に「思い込むようになっちゃったのか」「今もそう思い込みたいのか」を、考えてみませんか。

『人生にゲームじみたものはもう必要ない』

「これからの人生、ゲームじみたことはもう必要ない」
「(社会の、対人関係の…自分を取り巻くあらゆる)ゲームは、もうおしまい」
「たとえ目の前でゲームが繰り広げられていたとしても、参加しているようなフリはすれど、決して巻き込まれたりはしない」
「もしもゲームに無我夢中になっている人たちがいたら、頃合いを見てピーッと終了のホイッスルを吹いてあげる」

そんな風に宣言しましょう。「時代は開くことになったんですから」。

★さて皆さん、いよいよブログを開始します。文化編に、ようこそ!
今の時代は、両極端なものが勢ぞろいして「にらめっこ」しているような時代です。たくさんの人たちが、心のどこかで、きっともう気付いています。既に行動を起こしている人たちも、たくさんいます。自分はまだだ…なんて言う人にも、手をのばせば届きそうなところに「きっかけ」は近づいています。

それぞれの身の丈で、それぞれのアイディアで、それぞれのやり方で、社会はきっと「身近なところから」生まれ変わってゆきます。世の中には様々なゲームが渦巻いていますが、それらに「参加」しなくても、居場所はきっと見つかります。僕たちが手をたずさえ合えるなら。できることは、きっと、人間の数以上あります。

僕たちが生きているこの世界は、一つの「大合奏」と言えます。「今」という名の大合奏。耳を澄ませば、様々な音が聞こえてくるし、様々なハーモニーも聞こえくる。ノイズのように聞こえる音もあるかも知れないし、きしんだような音や、鳴り切らないままの音もあるかも知れない。これから響く壮大な音のことを感じ、互いに耳を傾け合えるなら、互いの間で奏でられる音は次第に増えてゆくでしょう。互いを知り、音を重ねてゆけるなら、そこには新しい音楽が生まれるはずです。それによって僕たちは、お互いをより感じ、より知ることができると思うのです。

文化編第一回目のテーマの一つは、「感じることと、知ること」。「感知する」という言葉の意味について掘り下げたいと思います。

この春『エハン塾・文化編』…京都でスタート!

皆さん、はじめまして。

この春、京都でスタートする「エハン塾」文化編で、エハンさんとご一緒させて頂く、きしもとタローと申します。普段は音楽家として暮らしています。

エハンさんとのご縁は、2009年の著書「地球巡礼者」を読んで、彼にメールを送ったことに始まります。子供の頃から南米音楽に親しんでいた僕は、表紙を飾っていたアンデス山岳地域の祭の写真に吸い寄せられて、この本を手に取った訳ですが…読んでみると、エハンさんが関心を寄せていることが、ことごとく僕自身も興味を持ってきた事ばかりだったので、これは連絡をせねばと思い立ちメールをしました。

驚いたのは、僕の音楽仲間でもある京都在住のスコットランド人がエハンさんのかつての親友であり(その人の結婚式の司会者は若かりし頃のエハンさんでした)、そしてエハンさんがかつて勤めていた大学は僕の母校であり、エハンさんが今住んでいる場所は僕が高校生の頃よく遊んでいた場所そのもので、更に僕が当時住んでいた岩倉という土地はかつてエハンさんが住んでいた場所、そして僕の友人のアメリカ人はかつてエハンさんと旅をした人でした。やり取りをするうちに「これは会わねば!」ということになり、その年の夏に僕たちは出会ったのです。

今回の企画を最初に立案した鈴木勇子さんは、僕が今住んでいる京都の北…京北という所に住んでいます。2015年秋のある日、勇子さんとの立ち話で突如「エハン塾」の話が出た時には驚きましたが、同時に何か急激に運命的なものが回り始めているのを感じました。

そして2016年、僕たちは京北で再会し、エハン塾の新しい構想…「文化編」のお話を聞き、一緒に計画を立てることとなったのです。この「文化編」は、これまでのエハン塾の幅広い情報発信に加え、対談や演奏などを交えながら、より身近で実践的な知の交流を試みてゆきます。

僕は今回の対談、音楽の話のようでありながら音楽だけの話にとどまらない、「人間の関係の在り方とその可能性」について、古今東西の様々な知恵をひも解きながら(特にコミュニケーションに焦点を当てながら)幅広い話をしたいと思います。エハンさんから僕へのインタビュー、そして僕からエハンさんへのインタビュー、お越し頂いた皆さんとの対話や演奏なども交え、これまでにない新しい形の「私塾・講義」になると思います。平日金曜日の企画ではありますが、是非ご都合あわせ、お越し下さい。

※これから4月15日まで、文化編第一回目の「予告版ブログ」ということで、講義に関連するお話を少しばかりシェアしてゆきたいと思っております。

プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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