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報告①『今の自分の状態で出てくる答えなんて…本当の答えじゃないかもね!』

エハン塾文化編スタートの日をはさみ、九州では大きな災害が起こりました。被災地の方々に一刻も早く安らぎが訪れますよう、全ての選択が人命第一で為されますよう、祈念致します。

★『時代は開くことになりました』第一弾は、無事終了致しました。お越し頂いた皆さま、有難うございます。これから何回かに分けて、この“報告編”で4月15日初回のご報告をさせて頂きます。…結構、長いです(笑)

さて…今回の講義(対談)、午前・午後の4つの時間は、それぞれ①「時代は開くことになりましたってどういうこと?」②「私たちの関係を一変させる、先人たちからの暗号」③「“ICI”とは~直感・創造力・独立性」④「感じることが世界を変える~文化とは何か?」と名付けられておりましたが、其々の中身に関しては特に決めないで、「当日のその場の空気」で進めよう、ということになっておりました。

そのため、4本の木の間を鳥が飛びまわるように…4つのテーマの間をエハンさんと僕でピョイピョイと飛びまわる、ある意味春らしい?対談になりました。お越し下さった皆さんとのやり取りも含め、対談はとても楽しいものでしたが、僕個人的には反省点も多々ありました。

講演や講義などを一人でやる時は、会場の大半の方が内容を呑み込めるよう、一つ一つのトピックについて、丁寧に時間をかけて話してゆくのですが、今回は対談…しかも対談の相手は、あれこれ言わなくても、すぐに「ピ~ン」と来ちゃうエハンさん。会場にお越しの皆さんがいることを前提に話は進めていましたが、二人の間ではすぐに通じてしまう事もあり、後から考えたら「大事なことを言わないまま、説明しきらないまま、話を進めてしまったかも」という反省が、僕にはありました。エハンさん、みなさん、ごめんなさい(><)!対談という中で、一つ一つのトピックを「結んでゆく」ことは、簡単ではありませんね~。

さて、少し不思議な話かも知れませんが…僕の中に、幾つものスイッチ・ボタンがあるとします。それらは、話題・知識・情報のボタンで、Aについての話題、Bについての知識、Cについての情報…といった具合に、無数に分かれて並んでいる訳です。誰かと向かい合うと、その人から「見えない手」が何本も僕の方に伸びてきて、ボタンがどんどん押されていきます。すると僕は自動装置のように、それぞれの話を喋っていく。

ボタンを押す人は、自分が「知りたい」ことが何かを、実は潜在的には「既に知っており」、その知りたいことに通じる可能性がある話題・知識・情報を持っている人に会うと、特に「自覚しないで」、見えない手をその人のボタンに向かって伸ばすのです。だから「わざわざ声に出して質問した訳でもないのに」、目の前の人が「自分が興味を持っていたようなこと」を喋り出す…というような現象が起きるのですね。

ところが、あのような大勢の人が集まる場・しかも普遍的なテーマを扱う場では、「ボタンを押す見えない手」は、あちらこちらから伸びて折り重なり合い、複雑な軌跡を描きながら、その場を行き交います。そこに居る人数よりもずっと多い「見えない手」が、僕やエハンさんの間でも、僕やエハンさんに向かっても、伸びている。

自分がなぜ、そのことを話し始めたのか…どこの誰から伸びてきた手が、ボタンを押したのか…一体幾つ同時に押されているのか。いちいち考えられないくらい、次から次へと押されてゆくような感覚の中で、まるでその場が巨大な一つの脳になって、その中で電気信号が行き交い、シナプスがつながっていくのを、脳の中の一つの細胞からリアルタイムで観察しているみたいになりました。

会場には、知識欲が旺盛な人々が集まっていたのかも知れません。終わった瞬間、僕が「知っていること」や、僕という人間を形成している個人的経験については、幾つか話したものの…「その知識・経験によって僕が持ち得ているアイディア」のようなものについては、皆さんにあまり提供できないまま終わってしまったような印象がありました。実はそういう話をしそうになった際、別のボタンの方が連打されているような感覚がずっとしていたからです。「音楽の話」や「ことばのカラクリ」と言えるものについては、ほとんど触れませんでしたが、これはまた、別の機会にしろということなのかな、と思っております。

また、言葉というのは常に普遍的な状態に在るものではなく、会話する人間たちの意識状態によって意味が変わったり、意味を為さなくなったり、場合によっては特定の言葉に関しては、使う必要がなくなったりもします。多くの人々がいる所で話す時は、その場にいる人々の意識状態の、「平均値」「最大共有域」に合わせて、言葉が選ばれたりするのです。つまり、特定の二人が二人だけで話す時と、そこに他の誰かがいる時で、選ばれる言葉も、その言葉の意味も、その言葉の深度も、変わってくるということですね。むしろそれが自然と言えるかも知れません。

人が集まる際、大体近い意識状態の人々が集まることが多く、その場合、言葉はむしろ選びやすいものなのですが、今回のこの文化編、興味深いことに「普段、疑問に感じていること」や「求めている知識」が、とても近い人々が集まっているものの、会場の意識状態は様々で、その幅は、僕の経験的にも大きいように感じました。そのため、言葉を選ぶのには少し難しさを感じていました。

それにしても、エハンさんの旅の話や、冒険談・体験談は、まだまだ面白そうでしたね!文化というのは、人間一人一人の内で培われてきたものであり、その人の経験、生きている環境や地域、普段の暮らしや時間の過ごし方、人間関係が、「映し出されているもの」です。その人を「より知る」ことで、その人の言葉も「より意味を為してくる」ものですね。文化力とは、「映し出されているもの」を通じて、「そこに何が映し出されているかを読み解くこと」でもあると思います。


ところで皆さんにとって、「講演」や「講義」に行く意味とは何でしょう?「情報や知識を得たい」というだけなら、分かりやすく整理されてまとめられた文章や本を、自分のペースで読む方が良いのかも知れませんし、今回のような企画なら、後で映像を見たりもできますから、シンプルに「情報や知識を得たい」というだけなら、わざわざお金を払って講演や講義に出向かなくても良いのかも知れません。

僕は「講演や講義に行く」というのはズバリ、「人に直に会う」「その空気に触れる・含まれる」ということではないか、と思います。「文言による知の経験」だけではなく、「身体全体を通した知の経験」。旅行雑誌の写真や映像を眺めるのと、実際にその空気の中に行くことは、おそらく想像する以上の違いがあります。コンサートと録音物などもそうでしょうね。実際の絵画と、それらが小さく印刷された図録を見るのも、随分異なります。

また、「新しい情報」や「知識」、何か「ヒントや答え」のようなものを求めて、こういった講演に来られる方もおられるでしょう。当日参加費を払って来られる方には、それなりの満足や納得、成果や手応えを持って帰って頂けることも大切だと思います。しかし一方で皆さんご存知の通り、エハン塾は普段から「答えを求めるのではなく、自分で考える」ことを提案し、「全ての人々を消費者にしてしまう、現代社会のシステムに対するアンチテーゼ」を発してもいます。エハンさん自身、禅の公案か謎かけのようにして、様々な問題提起をされたりもします。その中には実は、「今の自分の状態で、簡単に答えを出すな」というメッセージもあるのではないでしょうか。

その場で何らかの結論や答えが「提供」され、「持ち帰る」ことができないと、「買い物した気になれない」人もいるかも知れません。「思うようなもの」が得られなければ、「得したと思えない」人も多いかも知れません。しかしこの社会の「習わし」の中で意味や価値を高めようとして、「答えのようなものを提供」し、「満足を与えようとする」ことで、このような講演が結局、「依存促進」や「思考停止」、「消費的習慣の持続」を導くものになってしまったら、それこそ矛盾、それこそ残念ですよね。

だから…

すぐ出てくる答なんて、答じゃないかもよ!
これが答えですなんて言われても、有り難がってる場合じゃないかもよ!
何じゃこりゃ、と思うものの向こう側に、導かれている世界があるかもよ!

という訳で。

「この社会」の中で発案され、「この社会」で企画運営されていながら、それでも「商売でもなく」「サービスでもなく」、出会った人々が様々なことを考え始め、多くの引っ掛かりや、場合によってはモヤモヤまでもを持ち帰り、そしてまたお互いに会いたくなるような、そんな面白い「会合」…そんな文化を、「つくって」ゆきたいものですね!

つづく
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『観客席は、ない!』

想像してみて下さい…大きなスタジアムで、野球の観戦中。

どうやらみんなが観に来る試合。チケット買って入場したから、試合を見物するのは当然の権利。受付でやってたサポーター・テストで点数が良かったので、なんと指定席ゲット。スタジアム中央で繰り広げられるのは、試合という名のドラマ。そこに登場するのは、選ばれた選手たち。試合を眺めながら、歓声を上げたり、ヤジを飛ばしたり、隣の人と喋ったり。自分のところにボールが飛んでくるような「思わぬアクシデント」が起こらない限り、観客席では高見の見物。観客席は見渡す限りの人、人、人。試合が停滞してきたら退屈だけど、適当に興味をそらしつつ、試合が盛り上がってきたら、再びフィールドに注目。みんなでワーワー盛り上がれたら何だか楽しい。

この巨大スタジアム、実は出口が閉じられてて、観客たちは、入った瞬間自覚のないまま「観客であることを選んでしまった」人々、だけど自分たちと同じような人が多くいれば、特に疑問も湧かない人々。座席番号を渡されフィールドから距離のある、安全なはずの観客席に座れば、あとは試合を待つばかり。多少の優越感を感じられる指定席、そのほかの自由席…いずれにせよ、そこが自分の場所となれば、そこだけが自分の場所だから、取られないように注意。試合に熱中してきたら、スタジアムの外のことなんて、すっかり忘却の彼方。「権利を満たしている」つもりで自分の席に座ってたら、瞬く間に時が経ち、見せられるままに試合を見て、ただ試合に反応し続け、やがて気が付いた頃には「ただの傍観者」として、人生が終了。観客という配役は幾らでも代わりがいる。空いた席には、新しく次の人が座り、何事もなかったかのように、試合は続く。何百年も、何千年も。人はどんどん変わっても、スタジアムの風景は、変わらない。

…なんか、こわい!

でも大丈夫。そんな妄想スタジアム、興味がなければ入らなければいいのです。入らなければ、ないのと同じです。皆さんは、ないはずの観客席に居座り、社会の出来事をただ眺めるようにして人生を送ってはいませんか?歓声をあげたり、ヤジを飛ばしたり、話題にしたりして隣の人と盛り上がったりしながら…無責任にも世の中を見下ろせる場所にいるような錯覚には陥っていませんか?眺めてる試合に、最初から参加もできない立場を自分で選んだのに、そのことに一向に気付かないまま人生を送ってはいませんか?自分たちの損得に関わらない限り、見えることの大半をスル―できる「高見の見物」を決め込んだつもりが、いつの間にか「誰かが見せたいように、見せている」ことを見せられて、それらに「反応するだけのような日々」を過ごしてはいませんか?沢山の人たちと共通の話題で盛り上がっていられたら、何となく疑問なく毎日が過ぎてゆくような気にはなっていませんか?

ご注意下さい。人類の長き歴史が誇る「あるはずのない妄想スタジアム」に、膨大な数の人々が迷い込んでしまっているかも知れません。目の前で繰り広げられる「数千年続く歴史あるゲーム」は、あの手この手で気を引こうとしますから、気を取られてるうちに「ただの傍観者」のようになって人生を終えることになったら、それこそ大変。本当は、「この世界には観客席はない」のです。自分の席だと思い込まされ、うっかり座ってしまった席から、ヒョイッと立ち上がりましょう、なんせ「時代は開くことになったのですから」!

★予告編ブログ5回目。いよいよ文化編開始の日が近づいて参りました。

さて、この世界・この社会には、全ての人間が認めざるを得ない、ただ一つの「現実」がある…そんな風に思っていませんか?人間が、みんなで共有している、客観的で、疑いようがなく、逃れようもない、ただ一つの現実。そんなものがあると思いますか?

現実という言葉を、今日から「物語」という言葉に置き換えてみましょう。会社という物語、競争社会という物語、ビジネスという物語、成功と失敗という物語、子育てという物語、ご近所付き合いという物語、受験という物語、生存競争という物語、パワーゲームという物語、戦争という物語、陰謀という物語、経済という物語、現代という物語…

それらの物語が「どれほど目の前で大きく見えていたとしても」、それがこの世界で展開している「唯一の物語ではありません」。その大きな物語は、膨大な数の人々が共同で描いている、一つの大きな絵画のようなものです。その共同作業に参加し、一緒に描くのに熱中していると、まるで世界のほぼ全ての人が参加しているような錯覚に陥り、更に他の人を巻き込もうとしてしまいます。「物語」は大きくなると、一種の独立した生命のようになって、「描いている者たちを使って、より大きくなろうとする」のです。

スタジアムでの試合に歓声を上げている間・ボールの行方ばかり追いかけている間、人間はボールの行方や試合の推移以外に、そこで「膨大な数の物語が同時進行している」ことに、気が付けなくなります。たとえば歴史も、決して「一本の線」ではありません。膨大な数の線が、様々な人間の様々な選択が、見える所でも見えない所でも絡み合って交錯してゆくのです。たまたま「見えやすくなっている一本の線」も、それを取り囲む膨大な数の線がなければ、生じ得ないのです。ですから、僕たちが「見ている現実」も「知り得る歴史」も、言葉の通りの現実や歴史ではないのです。真実は一つではなく、「把握できないほど多くの事実が、絡み合い、うねり合いながら、同時進行している」ということが、真実なのです。

長い年月をかけて巨大化した一つの物語が、目の前に立ちはだかっていたとしても…膨大な数の人間がその共同作業に参加しているように見えたとしても、この世界で展開している物語は、それ一つだけではありません。僕たちは「幾つもの物語を生きる力」を持つ生命であるばかりか、「新しい物語を毎瞬この世界に描き加えることができる生命」なのです。この、物語を描く力こそが文化力でもあるし、目の前の物語をひも解く力も文化力なのです。文化力とは、本質的な豊かさを創造する力、ということも出来るでしょう。

それではみなさん、15日にお会いしましょう!

『カッコ良く見える人のほとんどは、実はカッコつけてるだけなの!』

この社会に暮らす大半の人々は、「だまされたくない」「損したくない」と、日頃から強~く思っています。でも、初めて聞く情報や新しい事実、聞いたことのないアイディアなどに出会った時…『眉をしかめ腕組みをし、「え~っ!?/あやしい!/聞いたことないぞ!」と“反射的に”拒絶反応を示し、警戒し遠ざけようとする人』と、『とりあえず近づき、「どういうこと?/なんでなの?」と、疑ったり検証したりして吟味しようとする人』は、頭の中が全く異なります。

否定や拒絶反応が、いきなり“反射的に”出てしまう人々は、元々「だまされやすくて、損しやすい思考パターン」を持っているのです。考え始めると、思考の軸を失い「自分自身が揺らいでしまう」可能性が高く、実は「だまされやすい・流されやすい」とこがあるのを、心のどこかで自覚しているからこそ、「そもそも考え始めないように」最初から出会う情報をパターン的に判別・識別し、反射的に「はね返す」よう、自身を“初期設定”しているのです。

厄介なことに、隣の人たちも同じように“反射的に”反応してたら、「そうそう、みんなもそうだよね」って安心してしまい、自分の中の“初期設定”には疑問も抱かなくなってしまいます。この社会には「周囲と同じように見えたら、とりあえず安心して思考を一旦停止してしまう」という習慣があるからです。たとえ自分の中に疑問や違和感が湧いても、「自分だけ」のように思えたら、表現せずに押し込めてしまう…これもよくある反応で、どんな反応であっても多数の人々と共有できたら、人間はとりあえず安心してしまうものです。だからこの社会は「ほぼ自動的に」、ごく一部の「特殊な立場の人々」と、「その他大多数の人々」に、分かれてしまうのです。

この“初期設定”、「決まったところからの情報は、どんどんインプット」してしまうのに、それ以外のところからの情報は「外部情報」として、即座にシャットアウトしてしまいます。この「外部情報への過剰な反応」によって注意を外に向け、“自分の内部状態をあやしむことが出来ないよう、巧妙にプログラミングされている”のです。これって、パソコン・メールの受信設定をウィルス対策で厳しくし過ぎて、あるところからのメールはどんどん届くのに、それ以外のところからの重要なメールは、入り口でガードされて全然届かなくなっている…という状態と、ほぼ同じと言えるでしょう。

一方、「だまされにくく、損しにくい思考」を普段から持っている人なら、新しい情報や事実、聞いたことのないアイディアに出会っても、むしろ好奇心たっぷりに覗き込むはずです。強い武道家が、どんな人から試合を申し込まれても「よっしゃ」と引き受けるみたいに。まずは近づかないと、本当の意味で「疑ったり検証したりする」ことも出来ませんし、考えることを面倒に思っていない人ならば、「だまされたらどうしよう・損したらどうしよう」なんて、自分で確かめたり考え始めたりする前に、思ったりしません。

そんな人が沢山いたら、世の中はもっと急速に変化を遂げていたかも知れません。社会の階層は引っくり返っていたかも知れませんし、ある人たちは手放したくないであろう立場や利権を手放さざるを得なかったかも知れません。でも世の中はまだまだ相変わらずのようですから…もしかしたら世の中の大半を占める「“反射的に”反応してしまう人々」は、「だまされたり損したり」しないよう気を付けているつもりが、実は既に「だまされてしまっている」のかも知れません。

ところで…まだ幼い精神の女の子たちは、しばしば、不良っぽくしてる男の子やカッコつけている男の子を見ると、「カッコいい~」と胸キュンしちゃうそうです。幼い精神の男の子たちが、キレイにメイクして流行のポーズをキメてる女の子を見ると、「超カワイイ~」と胸キュンしちゃうのと同じですね。この年頃の子供たちは、自信たっぷりに行動する人を見たら「すご~い、自信あるんだ」と思っちゃうし、偉そうに振る舞う人を見たら「きっと偉い人なんだ~」と思っちゃいます。つまり、「カッコ良く見せようとしている人を見て、カッコいいと思ってしまう年頃」なのです。でも、みんなが大人になってもそんな調子じゃ、まずいですね。この社会が、中学校の教室みたいになってしまいます。

ホントはね…

カッコ良く見える人は、そう思ってもらおうとして「カッコつけてる」だけで、実は「そうしてること自体、そんなにカッコ良いことじゃない」の!自信ありそうに見える人は、自信あると思い込んで、そのように振る舞ってるだけで、実は単に自分がわかってないだけなの!賢そうに見える人は、賢いね~って言われたことがあるから自分でも賢いと勘違いしちゃっただけで、本当はそれほど賢くもないの!何でも知ってるように見える人だって、別に何でも知ってる訳じゃないの!個性が強そうに見える人が、案外中身はフツーだったりするの!芸術家みたいな顔してる人が、頭の中は自己承認欲求でエゴのかたまりだったりするの!スピリチュアルでサイキックに見える人の頭の中が、実はとりとめのないコンプレックスで詰まってたりするの!カウンセリングしてる人が、本当はカウンセリングが必要なタイプだったりするの!

偉そうに見える人は、「偉そうにしてたら皆がビビっちゃう」のを知ってて、そう振る舞ってるだけで、ホントは全然偉くなかったりするの!強そうに見える人も、強がってるだけで、本当は中身は弱っち~かったりするの!大人みたいに見えても、中身は未熟な子供だったりするの!クールに見えても、そう振る舞ってるだけの人がほとんどなの!まじめで優しそうに見える人が、実は嫌われるのを怖がってるだけの人だったりするの!みんなが賛同しているように見えたとしても、本当にそうとは限らないの!本当のことのように世の中に広まってることが、本当のことを隠すためだったりするの!みんなが「それ」を信じてるように見えても、実際には信じ込まされてるだけで、本当はほとんどの人が「他の事実を知らない」だけなの!「オレはだまされないぞ」って言って腕組みしてる人が、既に頭の先から足の先まで、だまされてたりするの!

スゴそうに「見える」ものや、「みんながスゴいって言う」ものに出会っても、物怖(ものお)じすることはありません。「そう見せよう」としてくるものがあっても、「そう見ようとしなくてもいい」のです。まっすぐ感じてみましょう、そしてじっくり考えて、素直に表現してみましょう。共有なんてしなくてイイじゃないですか、分かってもらえないことなんか、恐れなくていいじゃないですか。何といっても「時代は開くことになったのですから」!

★ブログ4回目…開催まで10日を切り、このブログもどこからどこまでが前置きなのか、わからなくなってきましたね…

どんな人の頭の中にも、多かれ少なかれ「権威主義」が浸透しています。特にこの社会の人々は、「みんなが知ってる」ように見えるものや、「みんながスゴイと思ってる」ように見えるものに、極度にヨワイのです。そういうものには無邪気に目を向け、「すごい、アレだよ!」と盛り上がり、「へへ~」と頭を下げ、簡単に「有り難いものだ」と思い込んでしまいます。でもその一方で、あまり知られていないものや、「お偉い」評論家や学者やセンセーや著名人たちの賛同やお墨付きがないものに対しては、特に目も向けず、場合によっては気も付かず、踏みつけて通り過ぎてしまいます。自分で価値判断が出来る人・物事の違いが分かる人は、あまりいないのです。

だから、多くの人々が「権威」の印を欲しがるのです。政治家も社長もセンセーも、芸術家も評論家も料理人も、医者も教祖も商売人も…それがあれば「とりあえず一定以上の価値を多くの人々に認めてもらえる」し、逆にそれがないと、場合によっては「存在していないかのように扱われる」からです。人々の権威主義に便乗して、ハッピーをつかもうとするのです。

独特で、自信ありげで、どれだけフツーじゃないように見えたとしても、「Aのように見せてたら、みんながAとして扱ってくれる」と考え、「Aらしく」振る舞っている人は…(その人をAと思い込んで、その通りに扱う多くの人々と同じく)案外フツーの頭の人なんです。世の中の大半を占めている、フツーの、権威主義信奉者なのです。

だからこの文化編でも、エハン先生とか、ましてや、タロー先生とか呼んだりしなくていいのです。エハンさん・タローさんでいいのです。政治家も(代議士っていうだけなんだから)、センセーなんて呼んじゃダメなんです。学生じゃなければ、相手が教授でも、ホントはセンセーって呼ばない方が良いのです。実際日本人は長い間、「先生という言葉を間違って使い続けている」のです。そうやって知らず知らずのうちに「魔術のかけあい」をやっているんです。この社会は、呪術や魔術と決して無縁ではなく、みんな「知らずに、使い続けている」のです。

プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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