報告③『変化を感じたら、変化の中に飛び込んで、変化そのものになりましょう!』


前回に引き続き、第一回(4/15)「時代は開くことになりました!」にお越し頂いた方々との間で交わされた、質疑応答への補足シリーズ…2回に分けてと言っておりましたが、長くなってしまい(笑)どうやら3回になりそうです。ご興味のある方は、YouTubeでの収録映像(録画安定版1~4)も、ご参照下さい。


◆「先が見えない世の中になった」「これから社会はどうなるんでしょう」「時代はどのように変わってゆくと思いますか」

これに関しては、まず『先を見ようとする発想をやめてみる』『社会がどうなってゆくのかを案ずるのではなく、どんな社会にしていきたいかを考える』『時代がどう変わってゆくのかを案ずるのではなく、どんな時代にしてゆきたいかを考える』ことを、お奨めしたいと思います。

それはつまり「先を見たいと思う気持ちは、何故わいてくるのか」「何故、誰かに未来の予測を聞いてしまうのか」、まずはそこに疑問を持ってみませんか、ということでもあります。

「先が見えない」「これから、どうなるの」という不安や関心は、本質的に「受け身な思考」から生み出されます。「世の中・社会・時代をつくっているのは、少なくとも自分ではない」「世の中・社会・時代は、自分ではない、どこかの連中がつくっている」「自分ではない、大きな力がつくっている」…そのような思い込みが、心の奥底にないでしょうか。

僕たちの中の「自分たちは受け止める側だ」という初期設定が、僕たちにそう思わせています。それこそが、僕たちの創造性を阻害しています。

社会の在り方や時代の流れ…自分たちはその影響を受け、煽りをくらい、「ある時は得をし、ある時は損をする」側にいる…そのように強力に信じ込んでいるから、「対策」を立てたがる訳です。よりよく対応するため、先を見たくなる。できれば「より知っていそうな人」や「より考えていそうな人」に、「これからどうなるか、教えて欲しい」と思ってしまう。

しかし受け止める側に立つと、人間はどうしても無力になってしまいます。
ここらあたりで、思いきって「つくる側に自分もいる」という意識を持ってみませんか。

今の時代について、「先が見えない時代だ」という印象を持っている方は、実際多いのかも知れません。しかし考えてみれば、実は「ほとんどの時代がそうだった」のではないでしょうか。ここしばらくの数十年間を振り返ってみても、ある場所で生きている人々にとっては・ある状況下で生きている人々にとっては、「ずっと先が見えない状態だった」はずです。

紛争が続いている地域、自然災害が続いている地域、社会システムが大きく変化し続けていた地域、環境が大きく変わり続けている地域。家庭環境が激変した人々、生活環境が激変した人々、人間関係が激変した人々、逃れられない状況下にあった人々、閉塞的な状況下で闘っていた人々、手探りで仕事をしてきた人々、新しい活動の中で試行錯誤を続けてきた人々。

確かに現代は、「より大きな変化・転換を迎えている」のかも知れません。しかしそれも実際には、「既に進行していた変化」が、多くの人々に見えやすくなってきた・多くの人々にとって無視できなくなってきた・多くの人々の暮らしに直接的に関わるようになってきた…というだけのことです。

変化を起こしてきた人も、変化に気付いてきた人も、変化の中を生きてきた人も、沢山いました。しかしそれをはるかに上回る膨大な数の人々が、これまで「先が見えているような気にさせられ」「誰かが見せてきたものや、どこかで見せられたものを、そのまま受け入れ、何となく鵜呑みにしてきた」。

自分たちが生きている間には、世の中そんなに変わりはしないだろうという思い込み。遠い所では様々な出来事が起こっていても、近い所ではそんな事は起こらないという思い込み。ファッションや有名人やテレビ番組はその都度入れ替わってゆくだろうけれど、社会の価値観や人生設計の形は、それ程変わらないだろうという思い込み。便利なものが増えたり、システムが少々刷新されるかも知れないけれど、暮らしはそんなに変わらないだろう、という思い込み。

自分でもそう思っていたかったから、そう思い込まされてきた。思い込むことができたから、「頑張ってこれた」。頑張り続けるために、疑問をできるだけ抱かないよう努めてきた。

僕たちはこの社会で、「活動的な消費者」として生きることを、幼い頃から叩き込まれてきています。家庭・地域・学校・社会・メディアを通して、「そうなるように常に誘導されています」。そのため、今や「貨幣というモノサシを通さないと、物事の価値を測れなくなってしまった人々」が、この社会の大半を占めるようになってしまいました。多くの人々が、経済的な問題・状況が「自分自身の財布の中身に直接関わって来るまで」、社会や時代の変化や徴候に、気付くことができなくなってしまったのです。

気付くことができたとしても、大概の人がその直観・直感を、脇に置いてしまいます。同じく幼い頃から、「自分を納得させ、思考を停止するための呪文」も叩き込まれているからです。自分で感じ、そこから知り、考え、行動することよりも、周囲の人と呼応し、同意し合い、歩調を揃え、社会の出来事を受け手側として時折話題にしながら、その話題を仲間内で共有し、「いつものやりとり」を交わすことしかできなくなっているのです。

面倒なことは考えたくない、考え出してもキリがない、自分が知ったところで何も出来ない、第一自分にはそれほど関係がない、関わると責任も生じてしまう、行動すると損するかも知れない、自分だけ損はしたくない…「自分のことで忙しい・それどころじゃないから」、そんな風に言い訳しながら、肝心の自分のことから自動的に目を逸らしてきたのではないでしょうか。

周りの大半の人々が同じように生きていたなら、疑問も湧かないし、その中で「ある程度うまく立ち回れていたら」、それに関して改めて考える事もできません。「自分にはあまり関係ないことだ」と、その都度距離を取り、いつもの「どうでもいいゲーム」に精を出してしまいます。その一方で、自分や自分を取り巻く環境に深く関わってくる「兆し」、「起こりつつある変化の兆候」を、次々に見逃してしまう。

現代社会に生きる人々は、ある一つの物語(現実)に引きずり込まれて、その中を生きています。日頃、自分の持つ権利や自分が体験する損得には敏感なのに、「その物語自体に対しては、信じ難いほど受け身」です。

「みんなで支えている」物語を、「みんなで共有している」ことによって、「みんなの中に居続けていられる」。しかしそれは視点を変えれば、「みんなで大きな穴を掘り、みんながその中から抜け出せなくなっている状況」でもあります。

人生の節目ごとに、目の前に並べられる選択肢のどれかを上手に選んでゆけば、大体「みんなと同じような、そこそこの人生」が送れる。自分自身の人生について・社会の行く末について、その程度のイメージしか持ってこなかったという方も、案外多いのではないでしょうか。

しかしそれこそが、特定の物語の中での架空の設定に過ぎないとしたら…現代という限定された時間の中、経済至上主義国家、新自由主義地域という限定された空間の中での、壮大な幻想だとしたら…膨大な数の人々が共同で描き続けていたというだけの、ただの一時的な人類の妄想だったとしたら?

幻想から目を覚ますことは、良いことではないでしょうか。それとも「自分が棺桶に入るまでは、その幻想が続いていたら良かったのに」「幻想だろうが妄想だろうが、このまま夢を見ていたかったのに」と思う人の方が多いでしょうか。


ここで、「変化」について考えてみましょう。一つの現象が形と成って、「誰の目でも確認できるようになる」までには、時間を要します。つまり「変化が確認できた」ということは、実際には「その変化が始まってから、随分時間が経っている」ということですね。

夜寝て、朝起きて、陽が高くなって庭に出たら、知らない間に庭の花のつぼみが全部咲いていた…というようなものです。「開花」は、気付いたその時よりも、ずっと前から始まっていたはずです。

明らかな状態・無視できない状態になって初めて変化を確認する人々、そしてより多くの人々と共有・同意できる状態になって初めて変化を認める人々は、「起こりつつあることに対して、常に受け身の姿勢」になっています。変化を起こす側の生き方ではなく、変化を受けとめる側の生き方になっている訳です。だから、「常に変化そのものから遅れをとってしまう」。

逆に、変化が世の中に「明確な形となって出現する」前に、その変化をとらえる人々も、少数ながらいます。そういう人々は、起こりつつある変化について気付き、気付いた瞬間からその中で行動しています。変化に気付くということは、「その瞬間から、自分もその変化の一部となる」ということで、人間は変化をとらえたその時から、変化そのものとなって、何らかの行動をせずにはいられなくなるものです。

しかし残念ながらその行動は、変化を否定したい人々、変化したくない人々によって、孤立させられてしまいます。「変化に気付く人・変化に飛び込む人・変化そのものの一部となる人」が、ある一定以上の数になるまでは。そう、不動のようにも見えていた現代社会という名の大きな物語(現実)は、ここにきて誰にとっても「どっちに展開してゆくのか、分からなくなってきています」。まるで時代そのものが、「迷っている」かのようです。当然のことながら、その物語の中で舞台に立ち、役を得ていたはずの人々・台本通りに生きていた人々も、どう立ち回ったら良いのか、分からなくなってきています。

迷っている物語自体が(膨大な数の人々によって支えられていたとはいえ)、本来「架空のもの」なのですから、依然としてその迷っている物語の中で居場所を見つけようとしていたなら、当然自分自身も迷いという架空の物語の中を生きることになってしまいます。

考えてもみて下さい。子供の頃、周囲には「社会の物語・大人や親の物語」がありましたが、皆さんは自分たちの「子供の物語」の中を、生きていたでしょう。時々大人が押しつけてくる物語よりも、自分たちにとっては現実味があって、大事な「それぞれの物語・子供たちの現実」…それはつまり、皆さんは子供の頃、「自分を取り巻く物語はさておき、自分たちも物語を描いていた」ということです。

物語を描くということは、「世間とは関係なく生きる」「周囲の人々とかけ離れた現実を生きる」という意味ではありません。世の中には様々な物語が同時進行しており、全ての物語が関わり合っているのですから。たとえば、都市の物語と田舎の物語、人間の物語と野生動物たちの物語は、同時進行していますね。しかし、都会の物語が田舎の物語を侵食し、人間の物語が野生動物たちの物語を侵食し、そこに一つの物語しかないようにな錯覚に陥ってしまったら、どうなるでしょう。一つの物語(現実)だけがあるような錯覚に陥らず、自らの物語を描く力も見失わないことが、大切なのです。

これからの僕たちに必要なのは、「先を見ようとする」ことではなく、ましてや「どうなるのか誰かに尋ねる」ことでもなく、「自ら先を描こうとする」こと。

大人の中に自分の居場所を探そうとするだけの子供が、どれだけ「生き生きできなくなるか」ご想像下さい。言われるままにしか描けなくなった子供の絵は、どんな絵になるでしょう。自分が何色を塗ればいいのか、尋ねてばかりいる子供の絵は、どんな絵でしょう。誰かの絵に色を重ねることしかできなくなった生き方・指示された色しか塗れなくなった生き方になってしまったら、なんだか残念ですよね。

色を重ねてゆくのは僕たち、それぞれが絵を描くことができます。その絵が全体で見た時に、どんな巨大な絵になるのかは、まだ誰にも分からないのです。だから、尋ねても意味はありません。それぞれの人が、自分が描きたいようにしか答えてくれないし、そのようにしか答えようがないのです。

だから、変化を感じたり、変化を見て取ったならば、いつでも遅いと思わないで、その瞬間から「自分もその変化の中にいる=つまり自分もその変化の一部」なんだと認識し、どんな世の中を描きたいか想い描き、自ら描く側になりましょう!

つづく
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報告②『伝わりゃイイってもんでも、ないかもね!』

第一回エハン塾文化編「時代は開くことになりました!」では、会場の方々からも率直な意見や質問が飛び出しました。報告編②からは二回ほどに分けて、会場の方々との対話に少しばかりの補足をしてみたいと思います。ご興味のある方は、YouTubeでの収録映像(録画安定版1~4)も、ご参照下さい。

※ご意見・ご質問は(全て記載すると長くなるので)実際のものから簡略化・意訳しています。


◆「言葉(日本語)の間違った使い方」って、どんなこと?

これは、これから度々触れることになるトピックですね。僕たちは、一人で思考する時も、誰かと会話する時も、「特に意識しないで(注意を払わないで)」言葉を使っています。でもその「言葉」の、一つ一つに対する認識を深めることが、僕たちの思考や会話を「生まれ変わらせる」ことになるのだとしたら…

「自分を変えたい・今の暮らしを変えたい・このままではいけない気がする」、そんな想いをお持ちの方は多いと思いますが、「具体的に何からスタートすればいいのか、何ができるのか、ピンと来ない」という方も多いのではないでしょうか。

「普段使っている言葉を見直すこと」「言葉や言語表現に対する認識を深めること」。言葉は僕たちにとって「最も近くにある道具」の一つですから、その道具についてより知ろうとすることは、普段僕たちが「どのようにして思考を形作り、どのようにして関係を形作っているのか」を知ることでもあります。言葉は誰にとっても身近なものですから、この方法は誰にとってもスタートしやすく、大きな力を発揮するのです。

実際僕たちは、普段使っている言葉の「本来の意味や成り立ち」を、ほとんど知りません。多くの人々は「一つ一つの言葉について、知った上で使っている」のではなく、「それぞれの言葉を、どんな時にどんな風に使えば会話ができるのか、知っているだけ」なのです。僕たちは子供の頃から、周囲の人々が使う言葉や言語表現を耳にしながら、「その使い方を、真似してきただけ」なのです。でもその使い方が、根本的に間違っていたとしたら、どうでしょうか。

「使っている道具について知らないまま、その道具を使って何かを作り続けている」というのは、考えてみたら少々危なっかしいことです。たとえば子供の頃、周囲の人たちがノコギリで料理を作っていたからといって、自分もそれを真似てノコギリで料理を作るようになったら、料理はどんな風になるでしょう。周囲のみんなが当たり前のようにノコギリで料理していたら、「料理が何だかおかしいぞ」ということにも気付きにくいし、「ノコギリは料理の道具ではない」ということにも、気付けないかも知れませんね。ましてやそれが何世代にも渡ると、いつの間にか「料理はこういうもんだ」ということになって、もはや疑問も湧きにくくなります。

だからこそ「言葉の使い方を見直す」ことは、必要でもあります。知らない間に、何世代にも渡って、ノコギリで作る料理のようなものを、料理と思い込んできたのかも知れないのですから。

僕たちは、自分に関わる重要な言葉まで、「あやふや」なまま、使っています。たとえば「心、気持ち、意識、精神、考え、思い(想い)」。「自分・自我・自信・自由・自然」といった、「自」を含む言葉についても、意味や成り立ちを知って使っている人は、どれだけいるでしょう。明治以降、外国語に当てはめて使われるようになった日本語には、本来の意味とズレたまま使われているものが多く、中には全く異なる意味で使われ続けている言葉もあります。

「元の意味と違っていたって、今伝えたいことが伝えられていて、それがお互いに通じていたら、別にそれでいいじゃないか」という方も、おられるかも知れません。

「伝える・伝えない/通じる・通じない」ばかりに注目するのが、現代社会です。「知らないで使われる言葉」や「あやふやなままで使われる言葉」が、僕たち一人一人の「個人の中」で、「何を作ってしまっているのか」の方が、よっぽど重要なのです。そしてそれらを使うことによって、僕たち一人一人が「社会の中」で、「何を行き交わせているのか」に注目しないと、僕たちの社会が抱えている問題の根源は見えてきません。

伝えるとか通じるということが、一番重要なことではないのです。今の社会では、個人個人が作り上げている「思い込み」や「勘違い」、「妄想」や「不安」が、互いに伝えられ通じ合い、行き交っているのですから。

言うまでもなく、言葉は「それが指している対象そのもの」ではありません。互いの間でその対象を表し、互いの間でその「イメージ」を共有するための、便宜上の音や形…つまり記号でしかありません。山という言葉は、山そのものではありませんし、その言葉によって想起される山のイメージも、本当は人それぞれでしょう。それらは「それぞれの個人の内で描かれたイメージ」であって、「山そのもの」ではありません。

しかし人間は、言葉という記号を使って会話というやり取りをしながら、「ほぼ同じイメージを互いに交わすことができている」と思い込み、「ほぼ同じようなイメージを互いに共有できている」と思い込み、そしていつの間にか、自分たちによって共有されている(と思い込んでいる)イメージが、「山そのもの」であるかのような錯覚を抱くようになるのです。「山そのもの」よりも、自分たちの間でイメージが「伝わった」り「通じた」りする(と思われる)ことの方が、自分たちにとって重要であるかのような、勘違いをしてしまうのですね。

つまり、Cさんのことを話すAさんとBさんの間では、「Cさんそのもの」よりも、AさんBさんが勝手に描くCさんのイメージ(たとえば噂や悪口など)が、AさんとBさんの間で通じることの方が、重要であるかのようになってしまうのです。こうして言葉や会話は、「伝わったらいい」「通じたらいい」と思った瞬間、実存と妄想の逆転現象を引き起こし、「妄想であっても幻想であっても、誰かと共有できていると思えれば、それが実存・真実であるかのようにして行為に及んでしまう」…そんな人間の安直で危険な一面を、社会のアチコチで浮上させてしまうのです。

だからこそ、意味や成り立ちを知らないままで使われる言葉、深く考えないで交わされる言語表現は、本質的に「呪い」として機能してしまう場合が多いのです。それらの言葉や言語表現、それによって形作られている思い込みや妄想は、「知らず知らずのうちに」、相手や自分に作用し、相手や自分の思考・行動を、制限してしまうからです。

「そんなことしてたら、そのうち後悔するよ」「きっと泣きを見る」「そんなの無理に決まってる」「あなたのような人は…だ」等は、その代表格かも知れませんが、良い意味のように聞こえる表現や、褒め言葉なども、呪いの機能を持っていますね。たとえば「Aちゃんはすごいね、…になれるんじゃない?」等の、「良い意味だけど無責任な」持ち上げ表現等がそうです。その表現の向こう側にある呪いの機能を、本能的に察知するからこそ、「いやいや」と否定したくもなる人もいる訳で、それはその人が謙虚であるとか、ヒネているということではないのです。他者が「勝手に・安直に描いたイメージ」を、自分に投げかけてきたり、共有させようとしたりすることに、賢明な人は慎重になるということです。

他者が描くイメージ・決めつけたイメージを、自分自身のこととして受け取ることにより、そのイメージの周りを周回してしまう思考回路が、受け取った人の頭の中には自動的に作られてしまうのです。バカじゃないの・ダメだ・使えない・うざい・キモい・変なの・意味不明・暗い・弱い・情けない・子供ね…なんていうのもそうですが、すごい・才能あるね・素質あるね・天才じゃないの・賢いね・優しいね・強いね・かっこいい・若い・大人じゃん・男らしい…全てが「呪術的なはたらき」を持っています。

呪いには自覚しているものもあれば、無自覚なものもあり、ほとんどの場合、人々は無自覚に「相手にも自分にも呪いをかけてしまう」ものです。「呪いなんて、太古の昔のことだ」なんて思っている方もおられるかも知れませんが、実際、現代社会でも相変わらず呪いは行き交っています。

たとえば「自分に負けるな」等は、あまりにも便利使いされている言語表現ですが、自分という言葉に関しても、勝ち負けという言語表現に関しても、あまり考えないまま使っている人が多いですね。使っている人を目にして、その「使い方」だけを学習してしまうからです。「自」「分」を、更に「強い自分」や「弱い自分」、「ポジティブな自分」や「ネガティブな自分」、「愛されるべき自分」や「ダメな自分」に分け、そこで勝ち負けを創り出そうとしている人は、小さな「自分」の中で、一体何のゲームをしているのでしょうか。

「使い慣れている言語表現」「慣れ親しんでいる、便利な言い回し」ほど、要注意です。それらは、本来の意味を離れて機能しているものがほとんどだからです。使っているものから自由にならずして、自由にはなり得ません。言葉や言語表現を意識せずに使っている人々は、(自分自身や相手の)言葉や言語表現に、踊らされてもいるということです。

また多くの人々は、言語表現に含まれているトリックについて、あまり日頃気にしていません。たとえば「目的・手段」「勝ち・負け」「自信がある・ない」といった言葉表現は、セットになり、対義語のように使われています。しかし実はそれらは、「対していない」のです(これらについては、後の講座で話が出ると思います)。対していないものを、対しているかのように使い続けたら、僕たちの思考・互いの関係・僕たちをとりまく社会環境は、どのようなものになるでしょう。

自覚していようが、していなかろうが、言葉・言語をはじめとする表現は、僕たちの思考・関係・社会環境を、文字通り創造しています。「そのことを認識しないまま、使い続ける」ということ、それ自体が、本当は言葉の間違った使い方なのかも知れません。言葉という道具を見直し、使い方を変えることは、そのまま、個人の「創造力」や、社会の「創造力」を、生まれ変わらせることでもあるのではないでしょうか。

プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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