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報告④ 『答えを出すために、考えないでっ(?)』


第一回(4/15)「時代は開くことになりました!」報告編、会場の皆さんとの質疑応答コーナー補足シリーズも(遅くなりましたが)、いよいよ今回が締めくくりです。次回からは、第二回(7/30)の予告編を開始します。(ご興味のある方は、YouTubeでの第一回収録映像/録画安定版1~4も、あわせてご参照下さい)

※ご質問部分は、短く要約・意訳しております
※今回のは、とても長いです!3つのパートに分かれていますので、お時間のある時のどうぞ。

◆「自分の子供が、集団に今一つ馴染めないでいる。親としてはそんな子供の個性を、<それでいいんじゃないの?>と思ってあげられるが、その個性が集団の中でどう作用してゆくかは、本当に紙一重。困難に遭うかも知れないし、認めてあげることが本当に子供にとって良いことなのか、どうしても考えてしまう。」「親として、感情と思考のバランスを取るのは難しく、迷ったりブレたりしてしまう。」「モノや情報に溢れた時代。これから人間として出来上がってゆく子供たちに対し、大人として・親として・人として、どういうメッセージを出しながら接してゆけば良いと思いますか。」


1)メッセンジャー

親がこうして、悩んだり、迷ったり、ブレたり「してくれる」ことこそが、子供にとって「救い」になっていることも、あると思います。悩んだり迷ったりブレたりすることは、それ自体が悪いことではありませんしね。

かつては「子育ては、こうするもんだ」と、疑問なく言えるような時代もありました。しかし今はご存知の通り、従来の価値観が、大きく揺らいでいる時代です。学校や教育の在り方も、大きく変化しつつありますし、子供たちは、「既にこの社会で機能しなくなりつつある視点や価値観」に対して、とても敏感です。集団に馴染めないでいる子供たちは、特にそうです。

そのような子供たちは、たとえ身の回りで少数派のように見えたとしても、広い範囲で見れば、決して少なくはありません。大人や周囲に合わせて、「馴染んでいるように振る舞っているだけ」の子供たちも、沢山います。また、「問題がないように見えている子供」や、「うまくやれているように見える子供」が実際そうなのかと言うと、そうとも言い切れません。会社の中で平気な顔をして働いていても、実は平気ではない大人の方もおられるでしょう。長い時間をかけてストレスが表面化することもあります。子供だって同じことですね。

この社会では、子供でも大人でも、その時々「うまくやれてそう」だったら、「大丈夫そう・特に問題はない」と見なされ、周囲から注意を向けられにくくなります。もちろん、わざわざ問題を見つけようとする必要はありませんが、相手が子供であっても、パートナーであっても、親であっても、隣人であっても、自分自身であっても、「うまくやれてる・やれてない」というところだけで、その人の状況を「測る」クセがついてしまうと、その人から発せられる様々なサインを、ついつい見逃してしまうものです。

子供の個性について、もしくは社会と子供の関わりについて、「あれこれ考えなくてはならない状況にある」親御さんは、そんなサインに敏感にならざるを得ません。それはある意味、子供さんを通して次の時代からの兆しや導きを、「よりキャッチしやすい状況にある」ということでもあります。

学びには、人それぞれの順序や順番があり、どの部分から成熟させていくかは、人によって異なります。子供が何らかの困難を経験するとすれば、その子供は人生の早い段階で、ある部分を成熟させるきっかけを得ようとしているのではないでしょうか。個性というものは、経験によって熟してゆきますから、個性の強い子供ほど、早い段階で「学ぶべく、経験しようとする」ものです。

そして同じ経験であっても、それを「どのように体験するか」によって、その意味合いは異なってきます。子供たちにもたらされる経験は、たとえその時その時、困難なものであったとしても、近い将来「彼ら彼女らが、互いに出会う際」に、重要な意味を発揮します。「そのことに、経験的に確信を持っている大人」が、周囲にどれ位いるかによって、子供の体験は変わってくるように思います。

たとえば「大人になってから、深いところで共鳴できる人々に出会えるようになってきた」「同じような体験をしてきた人々と出会うようになった」「全く異なる経験から、同じような考え・似たような考えに至った人々に出会うようになった」という方は、案外沢山おられると思います。そのような出会いが起こったのは、「出会うための準備が、整ったから」ですね。

人生には、孤立したり、孤独を感じたりするような経験も、あるかも知れません。しかしどんな経験も「その瞬間には個人的なものとして体験するしかない」というだけで、時が経てば、その経験こそが「互いに出会うべき人々を、引き寄せ合ったりする」ものです。一つ一つの経験は、長い目で見てみると決して孤立している訳ではなく、「いまだ出会っていない人間同士が、将来出会うための準備」のようなものですね。

体験していることの「理由」なんて、その時々には誰にも分からない。しかし未来には、必ずそれらの体験の「種明かし」が用意されているものです。子供自身にも、そしてその隣で気をもむ親にも、「その瞬間には明かされることのない、人生の秘密」というものがあると思います。

その時々に「見えている範囲・分かっている範囲」で、無理やり「答えを出そう」としたり、「意味を与えよう」としたりせず、その時がいつか確実に訪れるものであるという確信を、親・大人が「経験的に」持っていることが、重要だと思います。

自分という「個」を完成させてから子供を授かる人なんて、ほぼいません。子育てに突入して、それから自身の人生を振り返り見直し、自分を「築き直してゆく」機会を与えられる人がほとんどだと思います。その時々に「どうすればよいのだろう」と立ち止まり、行動する度に「これでいいんだろうか」と悩んでしまうのは、おそらく自然なことですね。

むしろ「悩んでないフリ・迷っていないフリ・ブレないフリをしてしまう」事の方が、厄介です。「個」が完成されていない段階で子供がやって来るものですから、多くの人々は「いわゆる親・大人」に大急ぎで「なろう」としてしまいます。

このような「インスタントな変化」は、いわば「架空の成長」で、その人が持っている「思い込みをしばしば強化・加速」させたり、「漠然とした焦り」を引き起こしたりしながら、その人をいつの間にか「思考回避」状態に追い込んだりします(これは「親・大人」だけでなく、「先輩」「社会人」「プロ」「役職」「夫」「妻」など、様々なものに、急激に「ならなくては」「そう振る舞わなくては」と思った瞬間、起こりやすいことです)。

「しっかりしないと!」と思うあまり、「こうでなくてはいけない・こうしなくてはいけない・こうするべき」に、急いで合わせようとしてしまう。周囲の親・大人に仲間として認められ、受け入れられようとするあまり、「思考回避」状態に陥ってしまう(「自分で考える」ことは、しばしば、周囲の人々の共通認識や既存のパターンに疑問を投げかけることにもなり、人間は集団に属そうとする時「それぞれ個人が考えることを牽制し合う事がある」からです)。

要は、自分の考えや想いを、自分自身で充分に「深めない」うちに、「考える暇なんてない」を合言葉に、「立ち止まってなんかいられない・悩んでなんかいられない」と、互いに暗示をかけていってしまうのです。

その時々で「反射的に判断する」ことが増え、子供に対して「小さな力を行使」せざるを得ない日々が続くと、大人はついつい、「悩まなくなった・迷わなくなった・ブレなくなった」という錯覚、子育てを通して自分が「大人になった」という錯覚、「以前よりも強くなった」という錯覚を抱きやすいものです。それが子供に対して、「うまくいっているように思えたら」、周囲の親たちも同じようにしているようだったら、「何かが問題として形にならない限り」、自分自身の思考や行動のパターンには、気付くこともできなくなってしまいます。

悩んだり迷ったりブレたりするからこそ、この社会に何が起こっているのか、自分に何が起こっているのか、気付いたり考えたりすることができる、という側面もあります。子供は、時代の「メッセンジャー」のようなもので、子育ての中で度々起こる、「立ち止まらざるを得ない体験」は、大人が「錯覚という落とし穴」に落っこちる前に鳴らされる、お知らせのようなもの…なのかも知れません。錯覚に陥りそうな罠に近づいている時、子供は(もちろん、そうとは自覚せずに)「お知らせ」を鳴らし続けるように、行動に出るものではないでしょうか。


2)ゆるめるから、色々見えてくる、見えてくるから、色々考える

今の社会では、何かと人々は「強く」なりたがっています(つまりそれは「弱い」からなのですが)。しかし「強くなろうとすると、こわばってしまう」のが人間、「つよい」と「こわい」は日本語で元々同じイメージの言葉ですね(疲れて筋肉が固くなったのを、「こわい」と表現する地域もあります)。それ故に人は「強くなろう」とすると、しばしば自らを「固めようとしてしまう」ものです。

筋肉があれば強そうに見えるかも知れませんが、強い武道家になるのと、強そうに見えるボディービルダーになることは違います。

同じように、経験を通して結果的に「つよくなる」ことと、「つよくなろう・つよいと認められようとして、つよい行動をとる」ことは、全く異なります。経験を通して結果的に「しっかりする」ことと、「しっかりしよう・しっかりしていると認められようとして、それらしい行動をとる」ことは全く異なります。すごい人の言動と、すごいと思われたい人の言動には、大きな開きがあります。後者は、どこまでいってもフリですから。

もちろんフリでも、状況によっては「うまくはたらく」ことはあるかも知れません。しかしやはり、「賢い人の行動」と、「賢いと思われようとする人の行動」は異なり、「意志の強い人」と、「単に融通がきかない意固地な人」は異なります。強く見える人(見せてる人)、自分が強くなったと思い込んでいる人が、実際に強いとは限らないのです。

人間は未成熟であればあるほど、強くなりたがります。強さを持ち得ていないから、強くなりたいと願うのです。強くなろうとすると、大半の人々がその時点での知見・経験だけで自らの思考を固めようとしてしまい、「自信たっぷりに判断したり、選択したり、意見が言えたりする人」が、「大人」であるかのように思い込んでしまいます。そこで精神が「反射的にこわばり」、感性・思考・行動を「ただ固めていってしまう」人は、少なくありません。

考え方や姿勢に、「しっかりとした軸」を持ち得ることは、大人として大切なことかも知れません。しかし結果として内面に軸を持つことと、軸があるかのよう振る舞おうとすることは別です。自動車のハンドルには、極端な運転にならないように、少しばかり動く「あそび」と呼ばれるものがありますね。同じように、思考にも「あそび」を作り、ガチガチに固めないでいる方が、かえって自由がきくしコントロールしやすいものです。「あそび」と軸とは表裏一体で、適度な「あそび」が軸を保っている、とも言えるでしょう。

だから昔から、知恵のある人間は、自分の思考が固まりかけたら「知らず知らずのうちに、自身の意識に振動を与える経験を自ら得ようとします」。実際、ああかも知れないし、こうかも知れないのですから。ブレないことも立派かも知れませんが、ある意味人間は、内面を充分に熟成させるまで、何度も何度も「ブレるからこそ」、その人が見つけるべき何かを、探し続けられるのではないでしょうか。

また、「ゆるめる」と「ゆるす」は、元々同じイメージの言葉です。自身の思考をゆるめることができる人しか、自分や他者を、ゆるすことはできません。「ゆるせる」人しか、他者の中から何かを「見い出す」ことはできません。だから、「あぁ、ブレたらダメなんだ」「しっかりしなくちゃ」と思い過ぎることはありません。悩んだり迷ったりブレたりすることは、ある意味、視野を拡げ、他者をより理解するための知恵でもあるからです。

親・大人として「至らない」と思って、自らを卑下することもありませんし、「~らしく振る舞わなくては」「~だと認められなくては」と、気張ることもありませんね。その時々の身の丈でベストを尽くせば良いだけで、「今の自分の身の丈に、居座らなければ良いだけ」なのだと思います。

世の中では、実際多くの人々が「フリ」をして暮らしています。類型的で、典型的な「フリ」が出来る人、それが上手な人は、周囲の人々から「そうであるかのように」認められているかも知れません。しかしそれは、周囲の人々が、そう受け取り、そう扱うから、その人たちがそう見える、というだけの話…「意志が強そうでサッと判断ができる人」が、ただ単に「視野が狭い故に、判断が早いだけの人」だったりもします。

「色々見えない人」「色々見ようとしていない人」に限って、自分はすぐに考え、すぐに判断でき、すぐに行動できると早合点するものです。悩まない・迷わないようにしているつもりが、実は「単に深く考えられなくなっている」。色々なことが見えてきたら・色々なことを見たいと思ったら、悩んだり迷ったりするのはむしろ自然なことだと思います。

「しっかり・する」ということを、いきなり「動じないこと/ブレないこと/はっきりとした判断と態度を示せること」であるかのように捉えず、「しっかり見て/しっかり時間をかけて/しっかり考えること」と捉えた方が良いですね。「悩む・迷う・ブレる」というような表現も、できるだけ使わないようにして、「子供のこととなると、色々考えてしまう」くらいの言い方に、留めておく方が良いと思います。

言い方を工夫してみるのは大切です。「自分の状態を言い表す言葉で、人間は知らず知らずのうちに、自分を規定してしまう」ものです。「かんがえる」という言葉は、もとをただせば「か・むかう」という言葉、それはつまり「二つのものを向き合わせる」、「何かに向き合う」ということです。悩む・迷う・ブレるとは、根本的に異なる言葉です。


3)答えは、出すものじゃなくて、時間をかけて、創造してゆくもの

ここで「考える」ことと、「答え」について、「考えて」おきましょう。「答えを出すために、考える」「考えるからには、答えを出さなくてはいけない」…そう思い込んで、考え始めてしまう人は多いのではないでしょうか。

しかしそれは、「学校でやらされてきたテストのやり方が、そうだった」というだけですね。僕たちはあまりにも長い間、「問い→考え→答え」という図式に慣れ親しんできてしまいました。この図式が習慣化してしまうと、答えを出すことが目的で、答えを出すことは良いことで、早く答えを出せることや明確な答えを出せることは賢いこと…であるかのように、思い込むようになってしまいます。

答えは「思考の終着点」で、思考時間(悩んだり迷ったりする時間)が短い程、賢くて効率よくて経験豊富でクールな人のように思い込んでしまいます。その結果、多くの人が知らず知らずのうちに、「考えること(か・むかうこと)をスキップし、深く考えなくなってしまう」、「答えを出した瞬間から、それについてあまり考えなく(か・むかわなく)なってしまう」のです。

儲けることが目的になり過ぎると、次第にただの効率主義に陥り、労働時間短縮に簡易化にコストダウン、その結果世の中には安易でチープな商品ばかりが溢れます…就職が目的になり過ぎると、効率よく単位が取れてコネや内定が得られれば良いだけになり、学問の内容はどうでもよくなります…到着することだけが目的になると、停車駅は少ない方が良くて、できれば停まらないで欲しくなります…どれも同じことですね。

また人間は、答えを出そうとすることによって、「最初の問いと、自分が出した答えが、実際に結びついているかのように錯覚してしまいます」が、考えた末に出した答えが、問いに直結しているとは限りません。人間は思考する間に、「いつの間にか、問いをずらしてゆく事が往々にしてある」からです。

そして、答えを出したと思ったら「思考タイムは終わったかのように錯覚」し、それっきり考えるのをやめてしまう人も多いのですが、答えを出す(結論を出す)ために考える(か・むかう)のだとすれば、それはまるで「考えることを止めるために、答えを出そうとする」ようなもの…「向き合うのをやめるために、一時的に向き合う」ようなものになってしまいます。考える(か・むかう)とは、そういうことではないですし、一つの答えを出した気になっても、問いはどこかで持続してゆくことの方が、人生には多いものですね。

相手が子供であっても大人であっても、人と人の関係では、考える(か・むかう→向き合う)こと自体が一つの答えであり、考え続ける(か・むかい続ける→向き合い続ける)こと自体が一つの答え、その時々で「小さな答え」を出しているかのように行動しつつも、そうやって「考え(か・向かい)続ける」のが、関わりの中では答えでもあるということです。答えという結果に向かって考え、答えを出したら思考終了、それは「心の底では、考えるのはイヤ・できるだけ思考したくない・考えるのは面倒くさい、と思っている」ようなものです。

子育てはよく、「待ったなし」と表現されますが、実は「待とうとしていない」のは、子供自身でも子供が置かれた状態でもなく、「大人の思い込み」「大人が無疑問に受け継いできたシステム」の方ではないでしょうか。「待ったなし」を、「考える暇なんてない」に置き換え、あんまり「考えなく(か・むかわなく)なってしまう」ことが、世の中では習慣化しています。その都度答えを出したような気になって、そこからそれ以上「向き合わなくなる」ことが、習慣化しているという訳です。

もちろん、その時その時、小さな答えと言えるものを出さなくては、前に進めないような現実もあるでしょう。しかしそれは「便宜上の答え・とりあえずの答え」でしかなく、本当の答えではないという確認が、常に必要です。反射的な判断が続くと、本当の意味での判断力は、奪われていくものです。立ち止まる自由・じっくり考えてみる自由がいつもあり、そんな自由が創造力とつながってもいるのです。

やきもの(陶器)を作ったことのある方は「ろくろ」をご存知だと思います。グルグル回る土の塊に下手に手を出すと、形は一気に崩れてしまいますが、いつまでも触らないでいたら、陶器はできません。手を出し過ぎても、形はおかしくなっていきますし、キョロキョロ隣を見ながら真似してても、同じような物以下のものしか作ることは出来ません。

しかし不思議なもので、ちゃんと向き合って、手を添えていってやると、形は素直に、自ずから生まれてくるものですね。土の方が、手の添え方を導くようになる。もちろん、作る側の技術やイメージも大切ですが、その作り手の技術やイメージも、土の方が求め導いてゆくような側面があります。そして形ができたならば、その後は自分の手を離し、火に委ねる段階を経なくては、陶器は完成しません。

火に入れる前に出した答えが、そのまま本当の意味での答えになる訳ではない、そして実際、完成した陶器も、その後使われてゆくことで、更にその先の完成に向かう訳で、もしかしたら(小さい答えはその都度あれど)、終着点としての答えは、僕たちの生きている時間の幅を超えたところにあるのかも知れません。

「答え」というものは、自分の行動の積み上げで、「徐々に創造されてゆく」ものと言った方が良いのでしょう。子育てにおいては、その時々に出す小さな答えは便宜上のもの、本当の答えは子供の成長と共に徐々に創造されてゆくもの…そう「考えてみる」方が、良いのかも知れません。

子供の個性に関しては、それが本人にとってどうはたらいてゆくのか、人間関係の中でどうはたらいてゆくのか、なかなか簡単に予測したり判断したりできるものではありませんね。個性が形を成してゆく過程では、周囲の人間が、その都度「安直に答えを出そうとしたり意味を与えようとしたりしない」で(自分たちが描きやすいストーリーの中に子供を組み込もうとしないで)、ただ「最大の力で、眺め続けようとする」ことが、大切なのではないかと思います。そういった姿勢や行動こそが、子供へのメッセージとも言えるのでしょう。

「導くこと」「答えを出し・答えを示し・答えを与えること」だけが、親や大人の役目ではなく、子供にとっては、「親や大人が、自分に向き合い続けてくれること」「それを常に分からせてくれること」、それが一つの答えなのだと思います。特に後者の方は、親や大人の表現力にかかっています。言葉だろうが行動だろうが、「表現」というものには、人間の成熟度がストレートに表されます。親の責任というものに関して言及するなら、この「表現」を置いて、他はないのではないでしょうか。

親は、片方の手に「自分が経験してきたこと・自分が受けてきた教育」、もう片方の手に「今の社会状況や今の教育」、そして真ん中に「今の自分が持ち得ている考えや想い」を抱きながら、その間を「行ったり来たりしてしまう」ものです。そんな風に「行ったり来たりできる」という事は、今をちゃんと生きている、という事でもあり、行ったり来たりの分だけ道は踏みしめられ、その人の思慮は深くなってゆくものだと思います。

だから、親が「ああかも知れない・こうかも知れない」と迷ってくれること、「AはB」と決めつけてこないことが、子供にとっては救いになることもあると思うのです。それは大人同士の関係でも、同じことかも知れませんね。

答えを創造してゆく過程は長く、その先で「種明かし」をしてくれるのは、あれこれ責任を果たそうとしている親ではなく、未来の子供の方です。その時その時には、「起こっていることの意味」なんて、親にも子供にも、誰にもわかりません。だからこそ、「か・むかい」続ける(考え続ける)ことが大切なのでしょう。

その時々の行動が、正しかったか間違っていたかなんて、その時々には判定できないことがほとんどです。小さな答えは小さな答えでしかありません。変化というものは常にそこにあり、進行しているものなので、小さな答えを「出しているような」気持ちになることで、「考える(か・むかう)」ことが途切れてしまった時、人間は変化に後(おく)れを取り、そこから知らず知らずのうちに受け身になってしまいます。

答えを出しているような錯覚に陥らず、常に「答えを創造していく過程に自分はいる」、そう考える方が良いのでしょう。いつの日か、子供が種明かしをたずさえて、それを見せてくれる日が来ます。親や大人が、「そう確信している」ことを、子供に向かって表現し続けることが、成長を見守るということなのかも知れません。

長くなりました!それでは次回からは7月30日の予告編…またお会いしましょう。
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プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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