2016/07/16
『本当は、明るいも暗いも、ないかもね!』
皆さん、こんにちは♪エハンさんの対談相手で、当ブログ係きしもとタローです。前回の報告編は長文シリーズになってしまいましたが…めげずに読破して頂いた皆さま、有難うございます。長文を読める方々の多くは、きっと時間をご自身のものにできている方々ですね。7/30予告編は、出来たら短く?書こうと思います。
◆ニュースやネットから見えてくる世の中のありさまに、度々ガッカリしてしまう人はいませんか?社会の行く末を想うと、途方に暮れたり、暗い気持ちになっちゃう人は、いませんか?人類の文明に、現代社会に、人間そのものに(ついでにこの国に)落胆し、イヤになったり愛想(あいそ)尽かしたりしている人はいませんか?
確かにこの社会は「とんでもなく未成熟」だし、そこに生きる人間も「とんでもなく未成熟」、その相変わらずの所業(しょぎょう)、その愚かさや矛盾を目にするたび、暗い気持ちになるのは仕方ないのかも知れません。
でもそうやって、すぐに「世の中にガッカリしてしまう人」や「社会の行く末を考えると、途方に暮れたり、暗い気持ちになっちゃう人」「そういう気持ちが続いてしまう人」は、要注意です。それこそが、「人間が未成熟だからこそ抱いてしまう感情」「充分な行動を起こしていないが故に体験してしまう、心の現象」だからです。
実際、そのような感情や心の現象を作り出しているのは、僕たちの周囲にある「社会の現実や現状」などではありません。僕たちの内にある「自分に対する思い上がり」「他者や社会に対する思い込み」「(普段は自覚がない)受け身な思考癖」や「関わりから逃避しようとする(他者から距離を取ろうとする)癖」が、そのような気持ちを作り出しているのです。それらの「思い上がり」や「思い込み」「思考癖」が、僕たち自身の変化・社会の変化を阻害(そがい)し、僕たちの表現や行動を阻害し、世の中の明るい部分に「出会う」機会を阻害しているのです。
普段から、社会や周囲の人々に対して積極的に関わり、実質的な「はたらきかけ」を続けようとしている人は、社会や人に対して、簡単にガッカリしたりしません。少なくとも、そういう気持ちのままで居続けることはありません。そういった状態に居続けることが実際できないのです。何故でしょうか?
それは「自ら世の中や社会に向けて行動する」…そんな「自身の行動」によって、「希望を感じさせてくれる人々に出会っているから」です。変化の先端を歩くことによって、「明るい兆しも、間近で目にしているから」です。
世の中や社会に向けて行動する人々は、次第に「社会と自分との間で、被害・加害の関係を創造しなくなります」。人間は、自らを受け手・被害者の位置に置くことで、「自分は正しい側にいる」と思い込もうとしたり、それによって問題の本質から目をそむけ、自分を守ろうとしたりする癖を持っています。世の中や社会に向けて行動する人々は、受け手のフリをしない人々、参加していないようなフリをしない人々、被害者のようなフリをしない人々、観客席・批評家席にいるような気分に陥らない人々、なのです。
社会に対して・周囲の人たちに対して、実質的に「はたらきかけることを怠っている人」ほど、世の中に対して、すぐに嘆(なげ)いたり、落胆したりしてしまいます。「はたらきかけを早々に切り上げてしまう人」や、「自分のことばかりで頭が忙しい人」は、世の中や社会に対して、すぐにガッカリして見せようとしたり、突き放した物言いをしたりしてしまうのです。世の中や社会から「ゲットするもの(貨幣、評価、愛情、権利など)」に内心ご執心な人ほど、実は世の中や社会に対して怒りや落胆を抱きやすいのです。
それは、ほぼ大半の人が経験する「人生のある時期における状態・ある段階における状態」なので、今ご自分がそうだとしても、卑下することもなければ、非難されたと思い込んで、腹を立てることもありません。みんな、そんなもんなんです。ただ、そこで「正当化」という罠にはまって行くと、なかなか抜け出せなくなるので大変です。「自分は論理的で、物事について考えられる方だ」と思っている人ほど、その罠は近くにあると考えた方が良いでしょう。
「思い上がり」は、自己防衛と逃避によって生み出されています。人間は自らの「思い上がりや怠慢」を、すぐに正当化しようとしてしまいます。口では世の中や社会について考えているようなことを言っていたとしても、行動は基本的に自分のためばかり、誰と対していても、自分の考えている事や思っている事ばかりに気を取られてしまいますから、常に心のどこかには、周囲の人々や社会を見下そうとするような意識がはたらいてしまいます。そういう状態・段階に居続けてしまうと、「世の中や周囲の人に対して、とことんまで、はたらきかけよう」という選択肢や欲求を、自らの内に、さほど持ち得なくなってしまうのです。
そんな「罠」は、僕も含めて誰もが持っているものです。多くの人々が、そういう時期を経験するものだと思います。行動しない自分、とことんまで関われない自分、実は自分のことで忙しい自分、そうやって他者を遠くに置こうとしている自分に対して、まるで言い訳をするように、「周囲の人々にはたらきかけない自分」を正当化し、「思い込みの壁を破壊してくれるような人々に出会う機会を遠ざけている自分」をも正当化してしまいます。そこを誰かに指摘されると、気分を害し腹を立て、非難されたと思い込み、そんな自分を守ろうとし、理屈をこねて反論を展開し、そんな自分に居座ろうとしてしまいます。だって、「思い上がっているのですから」…。
エスカレートすると、社会や周囲の人々に「とことん」関わり、はたらきかけてゆくことには怠慢なクセに、社会や周囲の人々を潜在的に突き放すことで「自分たちは別次元にいる」ような気分になり、それによって人や社会から自分を守ることに熱心になってしまうのです。今の世の中は、そういう状態にある人々の多くが、その状態から抜け出せなくなっています。大なり小なり、互いにそうなのに、多くの人が「自分は別」と思い込んでしまいやすいのです。
成長の過程では、人間はその時々「未成熟」であるが故に、「自分が知り得たことや、分かったことばかりに目が行ってしまい」、自分はそこそこカシコイ、それなりに判断できる(ようになってきた)、と思い込んでしまうものです。年齢は関係ありません。その状態に長く居続けると、「世の中の大半の人々よりは、自分の方がよっぽどものを考えている・よっぽど物が分かっている」と思い込むようになり、人間は次第に自他の線引きに忙しくなり、「閉鎖的な自己愛」に陥ってゆきます。
「閉鎖的な自己愛」に陥ってしまうと、ものごと・できごと・周囲の人々に対して、すぐに嘆いたり落胆したりするようになります。「閉鎖的な自己愛」故に、自分の思い込みを「やっぱりそうだよね」と認めてあげようとして、自分の思い込みを強化するような情報や知識ばかりに目が行き、思い込みを強化してくれそうな人ばかりに出会うようになり、自分でも「気が付かないうちに」、それ以外のところには目が向かないようになってしまいます。
でもそういう状態は、世の中を人間を「知り始めた」人が通る、通過点のようなものですし、誰もが、実は一旦そうなっちゃうもんじゃないかなぁ、と思います。ただ、通過点は早めに通過した方がハッピーそうですね。だって、まだまだ先がある訳ですから!
ニュースやネットを眺める度に、暗い気持ちになったり、無力を感じたり、途方に暮れたり、イヤになったりしてしまう人は、「実は自分はまだまだ、世の中や人に対して、はたらきかけることを怠っているから、明るい気持ちにさせてくれる・希望を感じさせてくれる、より多くの人々に・より多くの知識や情報に出会えないでいるんだ」…と考えてみてはいかがでしょう。究極的には物事に明るいも暗いもないのですが、両方がバランスよく見えてくるなら、少なくとも世の中にガッカリしたまま、暗い気持ちのまま、ということはなくなります。
「出会いは実力だ」とは、文化人類学者の故・西江雅之の言葉ですが…この場合の「出会い」は、出会うべく人に出会う・視野や思考を拡げてくれる人々に出会う、という意味でもあり、「出会いは創造力に比例する」「出会いは探求の深さに比例する」とも言えるでしょう(この文化編のテーマ、エハンさんが挙げた「直感」「創造性」「独立性」ともつながってきますね)。
「この世には、知らないことが、とんでもなく、いっぱいある」と本当に思っている人、「この世には、まだ出会っていない素敵な人が、いっぱいいる」と本当に思っている人は、目の前のものごとに、世の中に社会に人間に、いちいち落胆してる暇なんてありません。もちろん、時々は暗い気持ちになったりすることはあるかも知れませんが、その状態に居続けることは「できない」でしょう。だって、実際「違う方に目を向ければ、出会うべき人々や情報・知識が、そこには溢れているのですから」。
心が自分のことばかりで忙しい人は、世の中に落胆しやすく、批判的で、否定的で、攻撃的になってしまいます。それらは「反応」であり、反応にとらわれている時、人間は多くのことを「感じられなくなってしまう」ものです。感じられなくなっているから、反応に終始してしまうのです。実際、「感じられなくなっている」時、僕たちは多くのものに「出会えなくなっています」。それは実は、創造力を失っているということでもあります。
多くの人が、「気付かされる」ことは、「お誘い」であるということに、「気付けない」でいるのです。同じ場所に立っていても、人間は「見ているものが、異なっていたりする」のです。視界を開けば、ここにいながらにして、見えていなかったことが見えてくるものです。オープンになるって、そういうことです。肩を叩かれて振り向かなければ、肩を叩く強さはどんどん強くなってきます。ちょいと振り向いてみれば、オセロの白黒が引っくり返るように、世界はまるで違った姿に見えてくるものです。
照らしてくるものを想定するから、人間はこの世界に、明るい所もあれば暗い所もあると思い込むのです。そうして「照らされる者として」、光と闇の間を行ったり来たりしてしまうのです。明るいも暗いもない世界は、「照らされない」世界。つまり、「光を受ける」のではなく、自ら光を発する世界(自ら行動し表現する世界)なのです。「行動と表現の世界」からのお誘いを、断らないようにしましょう。だって「時代は開くことになった」のですから!