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「創造的対話のススメ」第一回終了!

皆さん、こんにちは。先だって行われた催しのご報告をさせて頂きます♪

一部参加者の方々が大幅に遅れて来られたので、急遽「場つなぎ」に、ミニ・コンサートとダンス体験会(!)で始まった、「時代は開くことになりました!」実践編第一回“創造的対話のススメ①”

今回は実践編というシリーズのスタート企画として、テトラーダ本部のある京北(京都の北の山村)で、少人数による、いわばテスト飛行的な催しだった訳ですが、期せずして「対話というテーマを企画すること自体の難しさ」が、浮き彫りにされる事となりました。

新しい対話のあり方を探るには、従来の対話にある「幾つかの問題点」を、まずはお互いに認識し共有しなくてはなりません。何故かと言いますと、「自分自身は問題ない」と強く思っている方は、問題点を認識することも共有することもなく、そのまま「自分自身が慣れ親しんだ従来の対話のやり方に、突入してしまう」からです。

今回の最大の発見は、ここで「創造的対話」と呼ぼうとしているものは、想像していたよりもハードルの高いものであるということ。そして、「言いたいことが発言できたかどうか」「自分が、扱われたいように扱われたかどうか」に思考の大半が向いてしまう方には、(そこに自分自身で問題意識を持たない限り)ここでいうような創造的対話は難しいのかも知れない、ということでした。

この企画にあたって核となったのは、「もっと互いが高め合えるような、そんなやりとりを日常の中に増やすことはできないものか」というメンバーの一言でした。高めるということは、成長を目指すということであり、「その時点の自分たちとは、異なる自分たちに向かう」ということでもあります。つまり創造的対話とは、「その時点での、自分たちの意見の発し合い(反応の、し合い)」「その時点での、自己の扱われ方(エゴの満足)」は、二の次になるような…そんなやり取りとも言えます。この「高める」「成長」を、「時代は開くことになりました!」シリーズでは「人類の精神的進化」と表現してきました。

世の中のやり取りの大半を占めてしまう「言いたいことが発言できたかどうか」「自分が、扱われたいように扱われたかどうか」は、それぞれの在り方の固持、過去や現時点への居座りの状態を創ってしまうので、それが関わりにおいて、次の状態に進むこと・互いに「ひらく」ことの、壁にもなってしまう訳です。ともすれば、せっかくの対話も、自分の経歴・来歴や自分の考え・意見の、単なる示し合い・見せ合いに終わってしまいます。

そんな訳でこの企画、いきなり「参加者がその場でどんどん対話をしよう」という趣旨の会ではなく、あくまで「普段の対話に潜む問題を考え、参加者それぞれが次の日から取り組めるような、新しいアイディアを提供し、共有しよう」という趣旨の「講演会+質疑応答+座談会」でした。

つまり、「今の状態のままで対話をしてみよう」という会ではなく、「対話」そのものをテーマにして、「新しい対話のやり方を試してみませんか」というアイディアの共有が最初に行われるはずだったのです。でないと、「旧来のやり方」の、ただの意見交換会になってしまいますから。

ところが…開始時間が遅れたこともあり、最初の説明も早足になりましたから、趣旨内容を聞き逃していた方もおられたことでしょう。レジュメも配ったのですが、特に目を通さない方もおられたのかも知れません。(実践編という名称のせいもあったと思いますが)最初から趣旨を誤解されていた方もおられたのかも知れません。会の開始直後から発言し始めた方もおられ、そこからいわゆる「世間によくある、意見のやり取り」が始まってしまったのです。

こうなってしまうと、実はその(始まってしまった)流れを変えるのは困難になってしまいます。何故かと言うと、「それこそが今回、問題を指摘しようとしているタイプの対話」そのものだからです。

まさに、そこで、それが、始まってしまうと、そこに露見している問題を指摘するのは(今回の講演内容を詳しく語るのは)、ともすればその場におられる個々人に対する、ダメ出しのような意見にもなってしまいます。

また、発せられた意見が、今回のテーマである「対話」についての意見ならまだ良かったのですが、どちらかというと誰かの使った言葉や表現・トピックに関する意見や反応が目立ちました。それもそれで尊重して進めても良いのですが、あまりにもそこに時間を割き過ぎると、今回の話題の核心にいつまでたってもたどり着けません。

このような催しは基本的に何が起ころうと臨機応変に進めれば良いだけなのですが、おそらく今回のテーマにそれほど興味を持っていない方もおられたのでしょう、軌道修正して核心の方に向けようとすると、小学校の学級崩壊のようにウロウロする方もおられたり(「自分の行動が、その時点の自分を表していると同時に、他の人を含めてのその場の現実を創造してしまう…という意識を持ちましょう」というのも、今回のテーマだったのですが)、結局レジュメに詳しく触れる以前の状態で、かなりの間「対話」というテーマから外れたまま、いわゆる「意見交換会」が続いてしまったのです。もちろん、それが実りないものであった訳ではありません。そこでも色々と発見はあったのですが。

同じ発言・意見でも、相手に質問し確認してからの意見なら対話的でもあるのですが、質問も確認もないままの発言・意見が出てしまうと、対話は行ったり来たりを繰り返すことになり、創造的どころか建設的にもならないものです。その辺りのことも記載し、説明すべきだったかも知れません。人はしばしば、自分の内なる問題を外に向かって転嫁しながら、他者と対峙してしまいます。自分の意見と言うものが、自分の問題を映し出してしまっている場合もあり、単なる意見のやり取りはしばしば、それぞれの抱えている問題のやり取りになってしまうのです。

そうしてほぼ時間的には終了時刻を過ぎてから、少しばかり仕切り直しのようにして短い座談会が持たれました。残った参加者の方々との間で、単なる意見のやり取りにある違和感、現代社会での関わりにある問題など、対話に関わる幾つかのトピックについて互いに話もできたので、とても有意義なものになりました。

日頃から、人との対話で大概ハッピーを感じている人々と、しばしば苦痛を感じている人々がいます。この講座、「全てを創造しているのは自分だと自覚していますか?」というテーマが、最初に謳われていました。対話を単なる意見交換にするのも、それ以上のものにするのも、その人の創造性にかかっています。

樹の皮を剥ぎ、内面が晒される…それが「あらた/あたらしい」という言葉の意味の一つだった、という話をしました。着込んだ服を脱ぎ捨てて、風に当たって気持ち良いと感じる人もいれば、弱い部分が風に晒された、苦痛だ、と感じる人もいます。新しい自分に向かうのを阻害するものとは、何でしょう。その原因を外に向けてばかりいると、扉は開かないのではないでしょうか。もちろん、無理に開くことはないのかも知れませんが…少なくとも、閉じたままでいると、自分自身を苦しめている、「自らが為した、思わぬ創造」から、なかなか逃れることができないようにも見受けます。

「創造的」対話は、やはり大きなテーマでした。その創造性を、単なる意見交換や、やり取りの中でとらえようとするのは、難しいですね。今回のレジュメ、まとめ直して加筆した上で、簡単な本にしようと決意しています。より多くの人々に、「ひらいて」欲しいと思うからです。

レジュメにもあったのですが、挨拶という言葉には、開くというニュアンスに近い意味がありました。また、進化(evolution)とは「閉じられたもの・折りたたまれたものが、展開される」というような意味が本来あります。対話とは、互いを開くもの、進化(もしくは成長)に向かうものとも、言えるのではないでしょうか。
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プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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