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学生さんたちへのお返事(総論部分のみ)


9月23日(土)にイベントを控えてはおりますが…それとは別に?ちょっと長めの投稿をすることに。
※長過ぎて途中までの部分をアップしたのですが、読み返すと、その後ろの方が重要だったかもしれないし、尻切れになってる感じもしたので、もう少し先の部分まで掲載し直します。★以降がその部分 (9/20)

春から夏にかけて引き受けている、大学での授業で配った「アンケート」を、以前FB上で公開したところ、非常に多くの方が興味を持たれ、ご連絡を下さいました。現在、アンケートにこたえてくれた学生さんには、それぞれ個別に返事を書いているのですが、「総論」ということで、冒頭に共通の文章も付けております。

このアンケートに関心を持たれ、「実際に自分でも書いてみた」という方も、FBやこのブログの読者におられたので、僕が学生さんたちにお送りした今回の返事の中の共通部分「総論」を、ここでも公開しておこうと思います。授業で話した内容などが省かれているため、そこだけ読んだら謎かけのように見える部分もあるかも知れませんが、ご了承下さい。

最初にそのアンケート③の内容、そしてその後ろに今回の総論が掲載してあります。
長い文章ではありますが、ご興味のある方は是非!

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◆アンケート③
※この質問に、正解はありません。今日のこたえと、明日のこたえが違っててもいいくらい。でもよ~く考えて、提出して下さい。

1)あなたが今、「あなた自身の、最高の在り方」に成り得ているならば、あなたはどのようにして日々を過ごしているでしょうか?想像して、書いて下さい。

2)もしも今のあなたが、自分の可能性を活かしきれず、「最高の在り方にはなれていない」としたら、あなたがそうなるのを阻止し、邪魔しているのは、一体、何?思いつくままに、書いてみて下さい。

3)貨幣経済がなかったら…衣食住の為に稼ぐ必要がなかったら…あなたはどのようにして過ごしますか。あなたはその時、「何のため・何をするため」、世間に出たり、他者に会ったりするのでしょうか。

4)誰かと競争する必要もなく、誰かに認められる必要もなく、何かを勝ち得る必要もない世の中であるなら、あなたはその時、何に「達成感」を感じるようになるのでしょうか。

5)日常生活の中で、「誰か」を、拒絶しようとしたり、否定しようとしたり、そして時に攻撃しようとしたりしてしまう衝動や欲求は、なぜ人間の中から、生まれ出て来るのでしょうか。

6) 戦争は、この人間世界からなくなると思いますか。もしも「あなたが生きている間に、なくすことが出来る」とするなら、どうすればそれが可能になると思いますか。

7)あなたはこの現象世界を見る時、「自分は見ている側」と思い込みながら、それらを見ています。しかし実はあなたも常にその世界から「観察され、見られている」のです。さて、あなたの人生は、どんな風に見えているのでしょうか。

8)大半の人は、自分自身を「人に見せれる自分や人に見せたくない自分」「自分で好きになれる自分や、好きになれない自分」等、いろんな自分に分けながら、暮らしてしまいます。そんな自分が、「一つになっている時」があるとしたら、それはどんな時だと思いますか。

9)人間が「音楽的な感覚」を失った時、人と人のコミュニケーションは、どうなるでしょうか。「何が、音楽的と言えるのか」をよく考えて、こたえて下さい。

10)数日の内に死ぬとしたら、その残りの数日間にやっておきたいと思うことを幾つか挙げてみて下さい。

11)人類は、今よりも「進化」するでしょうか。もしするとしたら、どのように「進化」し得ると思いますか。

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◆総論

「勉強」という言葉は、現在僕たちが使っている「学ぶ・習う・考える・調べる」といった意味とは、異なる意味を持つ言葉でした。本来の漢字の意味は「無理強い」のような意味で、そこから日本語では「やらされることを我慢する」ことの意味になり、そこから次第に(我慢することによって得るものも時にはあるので)使い方が変化していって、いつの間にか意味がグルッと一回転し、「学ぶ」という意味に使われるようになってしまった、ビミョーな言葉です(日本には使っているうちに漢語での意味が逆転してしまった言葉が幾つかあります)。

「まけといてぇな」「ほな、今回は勉強させてもらいますわ」…なんて言う商売のやりとりは、ちょうどこの意味逆転の真ん中あたり、どちらの意味も含んだ使用例ですね。「買ってやるから安くしろ」という買い手の方の無理強いと、それを我慢することによって、「商売とは何ぞや」「其々の商売相手の出方や傾向」を学び、あわよくばそこから次の商売につながったらいいな、という売り手の方の「我慢することによって利が得られるかも」的心理、それら両方を表しています。

「覚える」という言葉も、現在は記憶するという意味や、脳に書き込むというような意味で使われていますが、元々は「おもふ(思う)」から生まれた言葉で、自らの心の内に「自然に浮かぶ」ことを言いました(覚の意味も、何かによって意識が生起したり、気づいたり、目が覚めたりすることですね)。そこから「自分から意識的に思い浮かべる」ということの意味に使われるようになり、更に時が経って、いつの間にやら「意識的に引き出せる情報や知識を、脳に書き込むこと・入れ込むこと」のようなイメージに変わってしまったのですね。

皆さんは想い返してみて、小学校・中学校・高校・大学と、どんなことに一番時間を費やしてきたでしょうか。「勉強」?それとも「学習」?「記憶や暗記」?それとも自分なりの「思索や研究」?何かに対する個人的チャレンジ?期待に応えたり、評価を得たりするための努力?それとも案外、周囲から課せられた義務や期待からの「逃避や回避」だったでしょうか。

言葉はその元の意味を失い「間違った使い方」をされていても、どこかで本来の意味のまま、我々に影響を与えていたりするものです。勉強に拒否感を覚えたり、記憶や暗記の繰り返しに言いようのない不快感を覚えた方も多いのではないでしょうか。

これまでの人生をどんな風に過ごして来たのか、想い返すことも時には大切ですね。自分は、どんなことに最も時間を使ってきたのか、それが全く別のものに対してだったら、自分の人生はどんな風になっていたのか…そんなことを色々想像したり分析したりしてみるのも、時には何かの発見につながるのではないかと思います。

そもそも、「自分の人生を生きる」とは、どういうことでしょう。その時その時、(多くは周囲に対して応じるための思考でしかありませんが)それなりに考えて、自分の人生を生きてるつもりでいても、それは結局誰かの描く人生・いずれかのパターンの一つでしかなくて、なかなか自分のものに成り得ているとは言えない場合もあるでしょう。

もし全く違うところに生まれていたら、今やらなくてはならないとされていることも、そうではないかも知れないし、自分がやりたいことも、異なっていたかも知れません。「こうでなくてはならない」「他に選択肢はない」ということが、別の所では全くそうではないかも知れない。そう考えると、それぞれの社会というのは、その構成員による壮大な思い込みに支えられているとも言えます。個人の思い込みだけでなく、社会の思い込み、時代の思い込みというものも、あるのです。「そういうもんだ・こういうもんだろ」と思って行動している限り、それはそこのゲームのルールに従って、ゲームを続けているようなものです。

別の思い込みの中では、「こうでなくてはならない」も「こうしたい」も、全く別だったかもしれない。自分は今の自分そのままでも、日々抱いている想いは、全く別のものになっていたかも知れない。それくらい、自分自身に対するバリエーションのイメージが多い人の方が、生き方は豊かになりやすいものです。

「幾ら仮定や理想を思い描いてみても、今自分が生きている現実の社会はこうなんだから、仕方ない」…まだ自身の精神的力を持ち得ていない人間は、家庭や学校や会社など、既存の社会の中で居場所を確保することに一生懸命になります。要は、自分の人生がどうだとか、そういう猶予を与えられない。提示された課題をこなしたり、期待に応えたりしながら、認知を得、評価を得、「そこに居ること」を許されていく。そうして我慢して頑張って努力したら、それが無駄になるのは誰でも嫌だから、「いつの間にか」多くの人が潜在的に、「そういう(自分が受動的に経験した)社会やシステムが、今後も持続してゆくことを望むようになってしまう」ものです。互いに、その社会が維持してきた壮大な思い込みを、今後も維持しようとしてしまう訳です。だから、世界はまだ「こんな状態」なのです。

維持しようとする人間は、無意識のうちに、互いに疑問を持つことを牽制し合い、互いの気を一過性のものごとに逸らし合い、決まり文句や便利な言い回しで会話を切り上げ、「さぁ(いつもの)ゲームに戻ろうぜ」というところで互いに「思考停止を持ちかけ合います」。はずれ者になるのは嫌だから、大半の人はその空気の中に、自分自身を融解させていきます。思考停止は、甘い誘惑でもありますから。

そして、受け身的な状態でいれば、人は被害者意識を持つことが出来ます。「社会がこうだから・周囲がこうだから・家族がこうだから・友人が、知人が、恋人がこうだから・これまでの経験がこうだったから」…被害者意識は、自分は悪くない・自分は正しい、と思い込むことが出来る一種の思考的罠で、責任を取りたくない気持ちが自分にあることを、覆い隠してくれます。行動しないでいる言い訳を作ってくれる。だから、被害者意識を持つことは、思考停止を生む甘い誘惑でもあるんですね。長い年月その意識に浸ってしまうと、人間は創造的な発想を失ってしまいますし、自発的で創造的な行動をとれないことによるエネルギー停滞状態から、思わぬところに攻撃や怒りを向けてしまうようになります。良いことは一つもありません。

自分と、既存の周囲との間で良いバランスを生み出すことは、この世界に生きていく上で大切なことではありますが、「自分自身がまだ充分見えていない状態」であるにも関わらず、「この社会での自分の存在」が許されるよう、周囲に合わせようとすることは、しばしば自分自身を見失うことにもつながってしまいます。生きる環境によって、様々な自分が在り得る訳ですが、やはりどこにいても変わらないであろう自分自身の在り方というのも、またあります。皆さんは、そういう自分の在り方を見い出し、そういう在り方で今、生きているでしょうか。

環境次第、状況次第、他人次第で、幸せになったり不幸になったりするのであれば、それは「自分自身の人生を創造する力」が、まだ充分でないということです。すぐに、何かに対して受動的になり、被害者意識を持ってしまい、それ故に自分は正しい・仕方がなかったのだと、どこかで自分を納得させ、どこかで思考にケリをつけてしまい、次第に、自分をも驚かせるような選択や行動をとれなくなってしまいます。つまり、本当の意味での「自信」を、持ち得ることができない人になってしまうのです。わだかまりや怒りや哀しみの矛先は、容易に自分自身に向いてしまいます。つまり、どこかで自分のことを責める人にもなってしまう。

自分自身の人生を創造する力を、育んだり、支えたり、するもの。それは、感じたり、不思議に思ったり、疑問を持ったり、考えたり、表したり行動したりすること、でもあります。自分自身をも驚かせるような行動を、人間はとれるものですね。そんな行動が、自分自身を育てるものです(おどろかせる、とは「目覚めさせる」という意味が元々ありましたから)。

これまでを想い返してみて、もうたくさん・もう充分と思えるものごとがあるならば、これ以上そういうことに対して、時間を費やすことはありません。充分だと本当に思えるくらいに、その時間を振り返ったなら、「もう自分は次の経験に行きます」と意識的に宣言して、この自分自身の人生を創造する力を探求することに、これからの時間を使っていって欲しいなと思います。

この授業は実践的文化交流という授業でしたが、文化とはこの創造行為の集積でもあり、本来は一人一人に異なる文化が存在します。自分自身を創造する…その過程を自分自身が歩むことで初めて、他の誰かの歩んでいる過程を、その人の中に見い出すこともできますし、そこから多くを読みとり、味わうことも出来るのです。創造する力と、読みとったり味わったりする力は、表裏一体です。本当の意味での交流とは、創造する力と読み取り味わう力の、邂逅の中心で自然に起こるもののことです。

さて、皆さんは普段どれくらい自分の日常の暮らしの中に、不思議に感じることや、疑問に思うことを見つけていますか。自分の世界を変え、新しく創造するきっかけは、極めて近く…皆さんの手元に、既にあるものです。使っている道具を、改めて自(みずか)ら見つめ直すことで、作られるものは自(おの)ずから、変わってくるからです。

中でも言葉は私たちにとって、重要な道具でもあります。私たちは「言葉」を使うことによって、認知している世界を(他者と共有できる形に)記号化し、世界を再構成し、そこから自らの思考を組み立て、感情や思考を表現し、他者と意思疎通をしながら自らの周囲に関わりをつくり、情報を行き交わせ、文化を形成し社会を築いています。しかし、自分たちが使っている一つ一つの言葉という道具について、私たちはどれだけのことを知っているでしょう?恐らくはあまり意識せず、「通じている(ように思える)から、これでいいかな」位の感覚で、ただただ習慣的に使っているだけなのではないでしょうか。

人間は「使う」ことによって、その道具について知っているような錯覚を起こします。その一方で、「使う」ことによって、その道具に思考を制限されてもいます。道具を使う時に重要なのは、その道具が出来る前の感覚を以て、その道具を使おうとすることです。そうして初めて人間は、「使いながらその道具を観察する」のです。(それは、社会にあるシステムやルール、常識と呼ばれるものに関してもそうです。ただそれらに合わせるのではなく、それらがまだ存在しなかった状態を思い浮かべた上で、それらに合わせて行動する、そこで初めてそれらを観察できるようになるのです。)

たとえば授業の中でとりあげたように、多くの人々は「しあわせ・幸福」という言葉について、その成り立ちから詳しく知っている訳ではありません。子供の頃から、両親や先生、周囲の大人や友人・知人たちが使っているのを見て、その使用法や効果・効力を知り、「使い方を真似て使ってきた」だけなのです。使うことによって、自分たちが欲している「しあわせや幸福」について、既に知っているような錯覚を起こしているのです。

「しあわせや幸福」について考えているつもりでも、実際には世間で言うところの「しあわせ・幸福」のイメージに、自分の状態がどれくらい該当しているか、世間で言うところの「しあわせ・幸福」の条件を、自分の今の状態がどれくらい満たしているか、漠然としたモノサシに、自分の状態を重ね合わせて「測っているだけ」なのです。そうして知らず知らずのうちに、世間で言う幸福・不幸のイメージに思考が制限され、「満足か不満か」「充分か不充分か」「あるかないか」「安心か不安か」について考えることが、しあわせや幸福について考えることだと思い込んでしまいます。

残念ながら、この社会ではこのような「論点の置き換え」が習慣化しています。あることについて考えているつもりでも、いつの間にか、それではない別の方向に思考が向くよう誘導されがちなのです。何故だと思いますか?互いに、目を逸らすよう、思考を逸らすよう、牽制し合うようなやり取りが、この社会には溢れています。気を付けて、周囲を眺めて見て下さい。

多くの人は「何をどれくらい持ち得ているか」「どれくらい欲求を満たしていると言えるか」「悩み事がどれくらいないか(世間では、考えることと悩むことが同義に捉えられがちなので、考えることが少ない方が幸せだと多くの人が思い込んでいます)」などの項目を並べ、総合点を出すことで、自分の幸福度を測ろうとしてしまいます。項目の満たし具合で、自分の状態が納得できるものなのかどうなのか、測ろうとしてしまいます。

論点の置き換えが完了してしまうと、幸福も不幸も「状況次第・周りの他者次第」でパタパタと入れ替わる、瞬間瞬間の状態のようなものになってしまいます。ある時は幸福、それ以外はそうでもない、でも衣食住は満たされているんだから、幸せと思わなくちゃいけないか…位の思考しか、はたらかなくなってしまいます。今の世の中は、「生命を支える基本必須項目と、よりよく生きるための必要項目を混同しています」。

「衣食住が満たされているんだから、他の欲求は贅沢、文句言うな」と言わんばかりの冷たい観念を互いに押し付け合っているから、被災地支援も仮設住宅立てて古着や弁当を送ったらすぐに打ち切られるし、衣食住が満たされているはずの人が、何故自分はしあわせを感じられないんだろう、これは贅沢な悩みなんだろうか、本当はこんなこと言ってちゃいけないんだろうかと、自分自身の精神状態に対して否定的になってしまうケースも増えてしまいます。衣食住が満たされて幸せなはずなのに、そう感じられないという人は、その理由を探ることなく、「本当は幸せを感じられるはずなのに」と、満たされているはずの衣食住に関する欲求をエスカレートさせてしまいます。服や靴をドカドカ買ったり、家に莫大なお金をかけたり、食べ過ぎたり…。間違った思い込みが、行動をエスカレートさせてしまうのです。

しかし、こういうことについて「考えない」ことを習慣化させてきた人々は、得ることや失うことで常に忙しい状態になっており、しあわせや幸福について会話したとしても「そんなの結局、人によってそれぞれじゃないの」というところで、会話を切り上げようとしてしまいます。「人それぞれ」という言葉は、元々「人それぞれの価値観を認め合おう」という肯定的な意味で使われていましたが、現在の社会では「もう、そういうことでいいじゃないの」と会話を切り上げ、互いの思考を停止させる機能で使われている場合がほとんどです。

「欲求は人それぞれで、どれ位で満たされたと思えるかも、人それぞれ」。つまりそれは「結局どの人間も、欲求を満たすことが幸せなんだよね」…というところで思考を停止するための言い回しになっています。みんな違うと言いながら実は、みんな結局は一緒だと言っている。世間にある便利な言い回しとは、互いの間で会話や思考を「切り上げる」ために使いやすい機能を持ち得たもののことです。

しあわせや幸福を望まない人などいないはずなのに、多くの人が、その言葉が指しているものが何なのかを、知りません(皆さんは授業で聞いて、今はもう知っているとは思いますが)。むしろ、今まで聞き覚えた言い回しを引用しながら、適当なところで会話や思考を互いに切り上げようとしてしまいます。まるで、ある花について人がいろいろ言ってたことを頼りに、その見たこともない花を探して、森の中を彷徨い続けたいかのようです。

今の世の中は、全ての人間が「活発な消費者・静かな労働者」であるように、知らず知らずのうちに誘導されています。「自分で考え行動する」人間が、育ちにくい状況に在るとも言えます。大半の人々が、「損したくない」「だまされたくない」「悩みたくない」「考えたくない」という想いに囚われながら「享受主義」に陥っています。損したくないという思考が無自覚のうちに損を生み出し、だまされたくないと思うからこそだまされやすくなり、悩みたくないと思うから次々に悩ましい状況を生み出してしまい、考えたくないと思うから考えないとどうしようもないような状況に陥ってしまう、「そうなってしまうカラクリ」を知らない人が多いのです。

大学は、情報を仕入れるための場所ではありません。それなら今の時代、図書館やネットで充分です。情報は入れるだけでは、その人の知識にはなり得ません。情報、知識、知恵、知性、これらは全く別のものですね。本当はもっと早い段階で「より感じることのできる感受性」と、「より考えることのできる知性と習慣」と、「より表現・行動できるための技法」を身につけるような教育があればよいのですが、それは今の社会にあるとは言えません。

本当は、何かについて考える以前に、「感じる能力」、そして「気付く能力」や「疑問を持つ能力(自らに問いをかける能力)」が必要です。

なので皆さんは、自分で自分を教育してゆく(育ててゆく)、一人二役的な感覚をこれから身につけることが必要です。出来事やものごとや目の前の人を、これまでよりもじっくり観察しようとし、よりオープンになって素直にそれらを感じようとし、そしてより自由に、より時間をかけて、それらについて考えようとし、そしてより頻繁に、より多様な形で、それらについて表現し行動し、そうしてお互いの見ている世界を照らし合わせながら、新しい社会や世界を築いていって欲しいと思います。

言葉に限らず、様々なものごとの「成り立ち」を知り、そこから自分で考え、自分の言葉を使って周囲や世間に向かって表現・行動する人は、まだ稀ではあります。しかしこれからの時代、そういう人は増えていくと思いますし、皆さんもそうなれる。僕自身も、そういう人が増える世の中にしてゆきたいと思っています。

皆さんにこたえてもらったアンケートは、いわば人類にとっての普遍的な「問いかけ」でもあります。「普遍的な問い」は、国境を越えて文化を越えて、人をつなげるものです。ある答えが人と人をつなげるのではなく、同じ問いを持ち続けていることが、異なる地域・異なる文化・異なる価値観の人と人をつなげるのです。生きるって何?死ぬって何?しあわせって何?豊かって何?成長するって何?最高の自分って何?人間って何?戦争ってなくならないの?人類ってもう進化しないの?今が最高点なの?人間の文明ってもっと先にいけるの?今よりももっと素晴らしい世界って在り得るの??

言語能力がどうとか、知識がどうとか経験がどうとか、そういうことよりもむしろ、強力な力を発揮するのが、こういった「人類普遍的な問いを、持ち続けているかどうか」です。答えを出したり、決めつけたりすることが重要なんじゃなくて、それらの問いについて考え続けている(か・むかい続けている)、自分なりに表現・行動し続けているということが、重要です。

だから僕の一番の役目は、僕自身も持っているこの問いを授業を通して皆さんにも投げかけて、共有することでした。是非この質問に、何年か経ってから、もう一度こたえてみて欲しいです。自分自身の言葉から、表現から、内容から、自分の中にも人類がこれまで歩んできた物語があり、そして自分には(生きている限り)その先の物語の可能性もまた、あるんだということが、実感できるのではないかと思います。

人類の進化についての質問もありましたね。Evolutionは元々、閉じられていたもの・折りたたまれていたもの(巻物や書物)を開く・展開する、というような意味合いを持った言葉だそうです。一人一人が自分自身の可能性を、これ以上ないほどに開いてゆくことが、人類全体の進化につながってゆくのではないでしょうか。それはつまり、「もしそうなるとしたら」…「その可能性は、そうなるべくして、ずっとそこに在り続けていた」ということです。つまり「人類は、今よりも可能性を開いてゆける」と思った人の内では、既にその進化は始まっている、ということでもあります。

大切なことは、「人類は進化すると思いますか?」の質問について考え始める瞬間に、「その人類の中には、自分自身も入っている」ということが、自分自身で明確にイメージできているかどうかです。自分自身の中に、成長もしくは進化(元の意味で)のイメージ、もしくは能動的イメージが明確にあれば、自分の思考は「進化できる」の方に向きやすくなるし、自分自身の中に、現状維持的もしくは受動的もしくは退化的イメージがあれば、自分の思考は「進化できないんじゃないかな」の方に向きやすくなります。

「その中に自分もいる」という感覚が薄くなって思考を巡らしている時、人間は、自身の最も大きな創造力を、「無自覚に」「自ら」手放しています。ものごとを客観的に見ようとすることも大切ですが、それは「文字通りの客観的視点というのは、在り得ない」ということを理解した上でのことです。「客観的に考えているつもりになっている」時、人間はしばしば自分自身に対する観察を怠っているものなのです。人間が知らず知らずのうちに、破壊的な思考を展開させてしまう時も、このような時です。クールに考えているつもりが、その思考は単に、自身の思考癖や思考停止パターンを巧妙に(自分に対して)隠しながら、思い込みや不安を代弁するように展開してしまっている場合が、非常に多い。外の情報にばかり心奪われ、自分の内にある創造的エネルギーを(実際には)見失っている時、人間は度々こうなってしまいます。

自分も人類のうちの一人ですから、人類について考える時、そこに自分がいることをイメージして考えることが大切で(それによって個人個人の行動は、自分の内から生まれてきます)、「人類に対して持つビジョンは、実は自分自身に対して潜在的に持っているビジョンだ」ということを忘れてはいけません。自分の思考の中には、自分自身に対するイメージが常に現れているものです。

他の人がどうとか、そういうことじゃない。どこかの誰かからとか、そういうことじゃない。「始まりというのは、自分が人類の一人である以上、自分からでもあるかも知れません」。そういう視点がない限り、人間は成長を放棄し、何か別のものに寄りかかり、創造力を手放してしまうものなんです。それって、勿体ないですね。

「問い」に対して答えようとしている時、それは「自分自身を観察できるチャンス」でもあります。自分を見たくない人は、問いなんて持ちたくないものです。何故かというと、「自分の精神の成長具合が、その時その時の状態が、問いを持っている時に明らかにされている」ことを、人間はどこかで知っているからですね。何かを隠そうとしている自分、何かを見ないようにしている自分も、その時その時の答えの中に、表れているものですし、自身の思考の矛盾も、落とし穴も、それから自分自身が抱いている不安も、そこに表れます。だから、最も大切なことは、問いに答えるということ自体ではなく、問いに対する答えを自ら観察することによって、「自分自身の今」を知ることです。

問いに対する自分のこたえを、読み解くこと。これを含めて、「問いにこたえること」でもあるし、そこから何かをつかんだ人が、「問いを持ち続けること」ができるんですよ。
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プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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