2016/04/13
『観客席は、ない!』
想像してみて下さい…大きなスタジアムで、野球の観戦中。どうやらみんなが観に来る試合。チケット買って入場したから、試合を見物するのは当然の権利。受付でやってたサポーター・テストで点数が良かったので、なんと指定席ゲット。スタジアム中央で繰り広げられるのは、試合という名のドラマ。そこに登場するのは、選ばれた選手たち。試合を眺めながら、歓声を上げたり、ヤジを飛ばしたり、隣の人と喋ったり。自分のところにボールが飛んでくるような「思わぬアクシデント」が起こらない限り、観客席では高見の見物。観客席は見渡す限りの人、人、人。試合が停滞してきたら退屈だけど、適当に興味をそらしつつ、試合が盛り上がってきたら、再びフィールドに注目。みんなでワーワー盛り上がれたら何だか楽しい。
この巨大スタジアム、実は出口が閉じられてて、観客たちは、入った瞬間自覚のないまま「観客であることを選んでしまった」人々、だけど自分たちと同じような人が多くいれば、特に疑問も湧かない人々。座席番号を渡されフィールドから距離のある、安全なはずの観客席に座れば、あとは試合を待つばかり。多少の優越感を感じられる指定席、そのほかの自由席…いずれにせよ、そこが自分の場所となれば、そこだけが自分の場所だから、取られないように注意。試合に熱中してきたら、スタジアムの外のことなんて、すっかり忘却の彼方。「権利を満たしている」つもりで自分の席に座ってたら、瞬く間に時が経ち、見せられるままに試合を見て、ただ試合に反応し続け、やがて気が付いた頃には「ただの傍観者」として、人生が終了。観客という配役は幾らでも代わりがいる。空いた席には、新しく次の人が座り、何事もなかったかのように、試合は続く。何百年も、何千年も。人はどんどん変わっても、スタジアムの風景は、変わらない。
…なんか、こわい!
でも大丈夫。そんな妄想スタジアム、興味がなければ入らなければいいのです。入らなければ、ないのと同じです。皆さんは、ないはずの観客席に居座り、社会の出来事をただ眺めるようにして人生を送ってはいませんか?歓声をあげたり、ヤジを飛ばしたり、話題にしたりして隣の人と盛り上がったりしながら…無責任にも世の中を見下ろせる場所にいるような錯覚には陥っていませんか?眺めてる試合に、最初から参加もできない立場を自分で選んだのに、そのことに一向に気付かないまま人生を送ってはいませんか?自分たちの損得に関わらない限り、見えることの大半をスル―できる「高見の見物」を決め込んだつもりが、いつの間にか「誰かが見せたいように、見せている」ことを見せられて、それらに「反応するだけのような日々」を過ごしてはいませんか?沢山の人たちと共通の話題で盛り上がっていられたら、何となく疑問なく毎日が過ぎてゆくような気にはなっていませんか?
ご注意下さい。人類の長き歴史が誇る「あるはずのない妄想スタジアム」に、膨大な数の人々が迷い込んでしまっているかも知れません。目の前で繰り広げられる「数千年続く歴史あるゲーム」は、あの手この手で気を引こうとしますから、気を取られてるうちに「ただの傍観者」のようになって人生を終えることになったら、それこそ大変。本当は、「この世界には観客席はない」のです。自分の席だと思い込まされ、うっかり座ってしまった席から、ヒョイッと立ち上がりましょう、なんせ「時代は開くことになったのですから」!
★予告編ブログ5回目。いよいよ文化編開始の日が近づいて参りました。
さて、この世界・この社会には、全ての人間が認めざるを得ない、ただ一つの「現実」がある…そんな風に思っていませんか?人間が、みんなで共有している、客観的で、疑いようがなく、逃れようもない、ただ一つの現実。そんなものがあると思いますか?
現実という言葉を、今日から「物語」という言葉に置き換えてみましょう。会社という物語、競争社会という物語、ビジネスという物語、成功と失敗という物語、子育てという物語、ご近所付き合いという物語、受験という物語、生存競争という物語、パワーゲームという物語、戦争という物語、陰謀という物語、経済という物語、現代という物語…
それらの物語が「どれほど目の前で大きく見えていたとしても」、それがこの世界で展開している「唯一の物語ではありません」。その大きな物語は、膨大な数の人々が共同で描いている、一つの大きな絵画のようなものです。その共同作業に参加し、一緒に描くのに熱中していると、まるで世界のほぼ全ての人が参加しているような錯覚に陥り、更に他の人を巻き込もうとしてしまいます。「物語」は大きくなると、一種の独立した生命のようになって、「描いている者たちを使って、より大きくなろうとする」のです。
スタジアムでの試合に歓声を上げている間・ボールの行方ばかり追いかけている間、人間はボールの行方や試合の推移以外に、そこで「膨大な数の物語が同時進行している」ことに、気が付けなくなります。たとえば歴史も、決して「一本の線」ではありません。膨大な数の線が、様々な人間の様々な選択が、見える所でも見えない所でも絡み合って交錯してゆくのです。たまたま「見えやすくなっている一本の線」も、それを取り囲む膨大な数の線がなければ、生じ得ないのです。ですから、僕たちが「見ている現実」も「知り得る歴史」も、言葉の通りの現実や歴史ではないのです。真実は一つではなく、「把握できないほど多くの事実が、絡み合い、うねり合いながら、同時進行している」ということが、真実なのです。
長い年月をかけて巨大化した一つの物語が、目の前に立ちはだかっていたとしても…膨大な数の人間がその共同作業に参加しているように見えたとしても、この世界で展開している物語は、それ一つだけではありません。僕たちは「幾つもの物語を生きる力」を持つ生命であるばかりか、「新しい物語を毎瞬この世界に描き加えることができる生命」なのです。この、物語を描く力こそが文化力でもあるし、目の前の物語をひも解く力も文化力なのです。文化力とは、本質的な豊かさを創造する力、ということも出来るでしょう。
それではみなさん、15日にお会いしましょう!
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