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報告②『伝わりゃイイってもんでも、ないかもね!』

第一回エハン塾文化編「時代は開くことになりました!」では、会場の方々からも率直な意見や質問が飛び出しました。報告編②からは二回ほどに分けて、会場の方々との対話に少しばかりの補足をしてみたいと思います。ご興味のある方は、YouTubeでの収録映像(録画安定版1~4)も、ご参照下さい。

※ご意見・ご質問は(全て記載すると長くなるので)実際のものから簡略化・意訳しています。


◆「言葉(日本語)の間違った使い方」って、どんなこと?

これは、これから度々触れることになるトピックですね。僕たちは、一人で思考する時も、誰かと会話する時も、「特に意識しないで(注意を払わないで)」言葉を使っています。でもその「言葉」の、一つ一つに対する認識を深めることが、僕たちの思考や会話を「生まれ変わらせる」ことになるのだとしたら…

「自分を変えたい・今の暮らしを変えたい・このままではいけない気がする」、そんな想いをお持ちの方は多いと思いますが、「具体的に何からスタートすればいいのか、何ができるのか、ピンと来ない」という方も多いのではないでしょうか。

「普段使っている言葉を見直すこと」「言葉や言語表現に対する認識を深めること」。言葉は僕たちにとって「最も近くにある道具」の一つですから、その道具についてより知ろうとすることは、普段僕たちが「どのようにして思考を形作り、どのようにして関係を形作っているのか」を知ることでもあります。言葉は誰にとっても身近なものですから、この方法は誰にとってもスタートしやすく、大きな力を発揮するのです。

実際僕たちは、普段使っている言葉の「本来の意味や成り立ち」を、ほとんど知りません。多くの人々は「一つ一つの言葉について、知った上で使っている」のではなく、「それぞれの言葉を、どんな時にどんな風に使えば会話ができるのか、知っているだけ」なのです。僕たちは子供の頃から、周囲の人々が使う言葉や言語表現を耳にしながら、「その使い方を、真似してきただけ」なのです。でもその使い方が、根本的に間違っていたとしたら、どうでしょうか。

「使っている道具について知らないまま、その道具を使って何かを作り続けている」というのは、考えてみたら少々危なっかしいことです。たとえば子供の頃、周囲の人たちがノコギリで料理を作っていたからといって、自分もそれを真似てノコギリで料理を作るようになったら、料理はどんな風になるでしょう。周囲のみんなが当たり前のようにノコギリで料理していたら、「料理が何だかおかしいぞ」ということにも気付きにくいし、「ノコギリは料理の道具ではない」ということにも、気付けないかも知れませんね。ましてやそれが何世代にも渡ると、いつの間にか「料理はこういうもんだ」ということになって、もはや疑問も湧きにくくなります。

だからこそ「言葉の使い方を見直す」ことは、必要でもあります。知らない間に、何世代にも渡って、ノコギリで作る料理のようなものを、料理と思い込んできたのかも知れないのですから。

僕たちは、自分に関わる重要な言葉まで、「あやふや」なまま、使っています。たとえば「心、気持ち、意識、精神、考え、思い(想い)」。「自分・自我・自信・自由・自然」といった、「自」を含む言葉についても、意味や成り立ちを知って使っている人は、どれだけいるでしょう。明治以降、外国語に当てはめて使われるようになった日本語には、本来の意味とズレたまま使われているものが多く、中には全く異なる意味で使われ続けている言葉もあります。

「元の意味と違っていたって、今伝えたいことが伝えられていて、それがお互いに通じていたら、別にそれでいいじゃないか」という方も、おられるかも知れません。

「伝える・伝えない/通じる・通じない」ばかりに注目するのが、現代社会です。「知らないで使われる言葉」や「あやふやなままで使われる言葉」が、僕たち一人一人の「個人の中」で、「何を作ってしまっているのか」の方が、よっぽど重要なのです。そしてそれらを使うことによって、僕たち一人一人が「社会の中」で、「何を行き交わせているのか」に注目しないと、僕たちの社会が抱えている問題の根源は見えてきません。

伝えるとか通じるということが、一番重要なことではないのです。今の社会では、個人個人が作り上げている「思い込み」や「勘違い」、「妄想」や「不安」が、互いに伝えられ通じ合い、行き交っているのですから。

言うまでもなく、言葉は「それが指している対象そのもの」ではありません。互いの間でその対象を表し、互いの間でその「イメージ」を共有するための、便宜上の音や形…つまり記号でしかありません。山という言葉は、山そのものではありませんし、その言葉によって想起される山のイメージも、本当は人それぞれでしょう。それらは「それぞれの個人の内で描かれたイメージ」であって、「山そのもの」ではありません。

しかし人間は、言葉という記号を使って会話というやり取りをしながら、「ほぼ同じイメージを互いに交わすことができている」と思い込み、「ほぼ同じようなイメージを互いに共有できている」と思い込み、そしていつの間にか、自分たちによって共有されている(と思い込んでいる)イメージが、「山そのもの」であるかのような錯覚を抱くようになるのです。「山そのもの」よりも、自分たちの間でイメージが「伝わった」り「通じた」りする(と思われる)ことの方が、自分たちにとって重要であるかのような、勘違いをしてしまうのですね。

つまり、Cさんのことを話すAさんとBさんの間では、「Cさんそのもの」よりも、AさんBさんが勝手に描くCさんのイメージ(たとえば噂や悪口など)が、AさんとBさんの間で通じることの方が、重要であるかのようになってしまうのです。こうして言葉や会話は、「伝わったらいい」「通じたらいい」と思った瞬間、実存と妄想の逆転現象を引き起こし、「妄想であっても幻想であっても、誰かと共有できていると思えれば、それが実存・真実であるかのようにして行為に及んでしまう」…そんな人間の安直で危険な一面を、社会のアチコチで浮上させてしまうのです。

だからこそ、意味や成り立ちを知らないままで使われる言葉、深く考えないで交わされる言語表現は、本質的に「呪い」として機能してしまう場合が多いのです。それらの言葉や言語表現、それによって形作られている思い込みや妄想は、「知らず知らずのうちに」、相手や自分に作用し、相手や自分の思考・行動を、制限してしまうからです。

「そんなことしてたら、そのうち後悔するよ」「きっと泣きを見る」「そんなの無理に決まってる」「あなたのような人は…だ」等は、その代表格かも知れませんが、良い意味のように聞こえる表現や、褒め言葉なども、呪いの機能を持っていますね。たとえば「Aちゃんはすごいね、…になれるんじゃない?」等の、「良い意味だけど無責任な」持ち上げ表現等がそうです。その表現の向こう側にある呪いの機能を、本能的に察知するからこそ、「いやいや」と否定したくもなる人もいる訳で、それはその人が謙虚であるとか、ヒネているということではないのです。他者が「勝手に・安直に描いたイメージ」を、自分に投げかけてきたり、共有させようとしたりすることに、賢明な人は慎重になるということです。

他者が描くイメージ・決めつけたイメージを、自分自身のこととして受け取ることにより、そのイメージの周りを周回してしまう思考回路が、受け取った人の頭の中には自動的に作られてしまうのです。バカじゃないの・ダメだ・使えない・うざい・キモい・変なの・意味不明・暗い・弱い・情けない・子供ね…なんていうのもそうですが、すごい・才能あるね・素質あるね・天才じゃないの・賢いね・優しいね・強いね・かっこいい・若い・大人じゃん・男らしい…全てが「呪術的なはたらき」を持っています。

呪いには自覚しているものもあれば、無自覚なものもあり、ほとんどの場合、人々は無自覚に「相手にも自分にも呪いをかけてしまう」ものです。「呪いなんて、太古の昔のことだ」なんて思っている方もおられるかも知れませんが、実際、現代社会でも相変わらず呪いは行き交っています。

たとえば「自分に負けるな」等は、あまりにも便利使いされている言語表現ですが、自分という言葉に関しても、勝ち負けという言語表現に関しても、あまり考えないまま使っている人が多いですね。使っている人を目にして、その「使い方」だけを学習してしまうからです。「自」「分」を、更に「強い自分」や「弱い自分」、「ポジティブな自分」や「ネガティブな自分」、「愛されるべき自分」や「ダメな自分」に分け、そこで勝ち負けを創り出そうとしている人は、小さな「自分」の中で、一体何のゲームをしているのでしょうか。

「使い慣れている言語表現」「慣れ親しんでいる、便利な言い回し」ほど、要注意です。それらは、本来の意味を離れて機能しているものがほとんどだからです。使っているものから自由にならずして、自由にはなり得ません。言葉や言語表現を意識せずに使っている人々は、(自分自身や相手の)言葉や言語表現に、踊らされてもいるということです。

また多くの人々は、言語表現に含まれているトリックについて、あまり日頃気にしていません。たとえば「目的・手段」「勝ち・負け」「自信がある・ない」といった言葉表現は、セットになり、対義語のように使われています。しかし実はそれらは、「対していない」のです(これらについては、後の講座で話が出ると思います)。対していないものを、対しているかのように使い続けたら、僕たちの思考・互いの関係・僕たちをとりまく社会環境は、どのようなものになるでしょう。

自覚していようが、していなかろうが、言葉・言語をはじめとする表現は、僕たちの思考・関係・社会環境を、文字通り創造しています。「そのことを認識しないまま、使い続ける」ということ、それ自体が、本当は言葉の間違った使い方なのかも知れません。言葉という道具を見直し、使い方を変えることは、そのまま、個人の「創造力」や、社会の「創造力」を、生まれ変わらせることでもあるのではないでしょうか。
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プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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