報告③『変化を感じたら、変化の中に飛び込んで、変化そのものになりましょう!』


前回に引き続き、第一回(4/15)「時代は開くことになりました!」にお越し頂いた方々との間で交わされた、質疑応答への補足シリーズ…2回に分けてと言っておりましたが、長くなってしまい(笑)どうやら3回になりそうです。ご興味のある方は、YouTubeでの収録映像(録画安定版1~4)も、ご参照下さい。


◆「先が見えない世の中になった」「これから社会はどうなるんでしょう」「時代はどのように変わってゆくと思いますか」

これに関しては、まず『先を見ようとする発想をやめてみる』『社会がどうなってゆくのかを案ずるのではなく、どんな社会にしていきたいかを考える』『時代がどう変わってゆくのかを案ずるのではなく、どんな時代にしてゆきたいかを考える』ことを、お奨めしたいと思います。

それはつまり「先を見たいと思う気持ちは、何故わいてくるのか」「何故、誰かに未来の予測を聞いてしまうのか」、まずはそこに疑問を持ってみませんか、ということでもあります。

「先が見えない」「これから、どうなるの」という不安や関心は、本質的に「受け身な思考」から生み出されます。「世の中・社会・時代をつくっているのは、少なくとも自分ではない」「世の中・社会・時代は、自分ではない、どこかの連中がつくっている」「自分ではない、大きな力がつくっている」…そのような思い込みが、心の奥底にないでしょうか。

僕たちの中の「自分たちは受け止める側だ」という初期設定が、僕たちにそう思わせています。それこそが、僕たちの創造性を阻害しています。

社会の在り方や時代の流れ…自分たちはその影響を受け、煽りをくらい、「ある時は得をし、ある時は損をする」側にいる…そのように強力に信じ込んでいるから、「対策」を立てたがる訳です。よりよく対応するため、先を見たくなる。できれば「より知っていそうな人」や「より考えていそうな人」に、「これからどうなるか、教えて欲しい」と思ってしまう。

しかし受け止める側に立つと、人間はどうしても無力になってしまいます。
ここらあたりで、思いきって「つくる側に自分もいる」という意識を持ってみませんか。

今の時代について、「先が見えない時代だ」という印象を持っている方は、実際多いのかも知れません。しかし考えてみれば、実は「ほとんどの時代がそうだった」のではないでしょうか。ここしばらくの数十年間を振り返ってみても、ある場所で生きている人々にとっては・ある状況下で生きている人々にとっては、「ずっと先が見えない状態だった」はずです。

紛争が続いている地域、自然災害が続いている地域、社会システムが大きく変化し続けていた地域、環境が大きく変わり続けている地域。家庭環境が激変した人々、生活環境が激変した人々、人間関係が激変した人々、逃れられない状況下にあった人々、閉塞的な状況下で闘っていた人々、手探りで仕事をしてきた人々、新しい活動の中で試行錯誤を続けてきた人々。

確かに現代は、「より大きな変化・転換を迎えている」のかも知れません。しかしそれも実際には、「既に進行していた変化」が、多くの人々に見えやすくなってきた・多くの人々にとって無視できなくなってきた・多くの人々の暮らしに直接的に関わるようになってきた…というだけのことです。

変化を起こしてきた人も、変化に気付いてきた人も、変化の中を生きてきた人も、沢山いました。しかしそれをはるかに上回る膨大な数の人々が、これまで「先が見えているような気にさせられ」「誰かが見せてきたものや、どこかで見せられたものを、そのまま受け入れ、何となく鵜呑みにしてきた」。

自分たちが生きている間には、世の中そんなに変わりはしないだろうという思い込み。遠い所では様々な出来事が起こっていても、近い所ではそんな事は起こらないという思い込み。ファッションや有名人やテレビ番組はその都度入れ替わってゆくだろうけれど、社会の価値観や人生設計の形は、それ程変わらないだろうという思い込み。便利なものが増えたり、システムが少々刷新されるかも知れないけれど、暮らしはそんなに変わらないだろう、という思い込み。

自分でもそう思っていたかったから、そう思い込まされてきた。思い込むことができたから、「頑張ってこれた」。頑張り続けるために、疑問をできるだけ抱かないよう努めてきた。

僕たちはこの社会で、「活動的な消費者」として生きることを、幼い頃から叩き込まれてきています。家庭・地域・学校・社会・メディアを通して、「そうなるように常に誘導されています」。そのため、今や「貨幣というモノサシを通さないと、物事の価値を測れなくなってしまった人々」が、この社会の大半を占めるようになってしまいました。多くの人々が、経済的な問題・状況が「自分自身の財布の中身に直接関わって来るまで」、社会や時代の変化や徴候に、気付くことができなくなってしまったのです。

気付くことができたとしても、大概の人がその直観・直感を、脇に置いてしまいます。同じく幼い頃から、「自分を納得させ、思考を停止するための呪文」も叩き込まれているからです。自分で感じ、そこから知り、考え、行動することよりも、周囲の人と呼応し、同意し合い、歩調を揃え、社会の出来事を受け手側として時折話題にしながら、その話題を仲間内で共有し、「いつものやりとり」を交わすことしかできなくなっているのです。

面倒なことは考えたくない、考え出してもキリがない、自分が知ったところで何も出来ない、第一自分にはそれほど関係がない、関わると責任も生じてしまう、行動すると損するかも知れない、自分だけ損はしたくない…「自分のことで忙しい・それどころじゃないから」、そんな風に言い訳しながら、肝心の自分のことから自動的に目を逸らしてきたのではないでしょうか。

周りの大半の人々が同じように生きていたなら、疑問も湧かないし、その中で「ある程度うまく立ち回れていたら」、それに関して改めて考える事もできません。「自分にはあまり関係ないことだ」と、その都度距離を取り、いつもの「どうでもいいゲーム」に精を出してしまいます。その一方で、自分や自分を取り巻く環境に深く関わってくる「兆し」、「起こりつつある変化の兆候」を、次々に見逃してしまう。

現代社会に生きる人々は、ある一つの物語(現実)に引きずり込まれて、その中を生きています。日頃、自分の持つ権利や自分が体験する損得には敏感なのに、「その物語自体に対しては、信じ難いほど受け身」です。

「みんなで支えている」物語を、「みんなで共有している」ことによって、「みんなの中に居続けていられる」。しかしそれは視点を変えれば、「みんなで大きな穴を掘り、みんながその中から抜け出せなくなっている状況」でもあります。

人生の節目ごとに、目の前に並べられる選択肢のどれかを上手に選んでゆけば、大体「みんなと同じような、そこそこの人生」が送れる。自分自身の人生について・社会の行く末について、その程度のイメージしか持ってこなかったという方も、案外多いのではないでしょうか。

しかしそれこそが、特定の物語の中での架空の設定に過ぎないとしたら…現代という限定された時間の中、経済至上主義国家、新自由主義地域という限定された空間の中での、壮大な幻想だとしたら…膨大な数の人々が共同で描き続けていたというだけの、ただの一時的な人類の妄想だったとしたら?

幻想から目を覚ますことは、良いことではないでしょうか。それとも「自分が棺桶に入るまでは、その幻想が続いていたら良かったのに」「幻想だろうが妄想だろうが、このまま夢を見ていたかったのに」と思う人の方が多いでしょうか。


ここで、「変化」について考えてみましょう。一つの現象が形と成って、「誰の目でも確認できるようになる」までには、時間を要します。つまり「変化が確認できた」ということは、実際には「その変化が始まってから、随分時間が経っている」ということですね。

夜寝て、朝起きて、陽が高くなって庭に出たら、知らない間に庭の花のつぼみが全部咲いていた…というようなものです。「開花」は、気付いたその時よりも、ずっと前から始まっていたはずです。

明らかな状態・無視できない状態になって初めて変化を確認する人々、そしてより多くの人々と共有・同意できる状態になって初めて変化を認める人々は、「起こりつつあることに対して、常に受け身の姿勢」になっています。変化を起こす側の生き方ではなく、変化を受けとめる側の生き方になっている訳です。だから、「常に変化そのものから遅れをとってしまう」。

逆に、変化が世の中に「明確な形となって出現する」前に、その変化をとらえる人々も、少数ながらいます。そういう人々は、起こりつつある変化について気付き、気付いた瞬間からその中で行動しています。変化に気付くということは、「その瞬間から、自分もその変化の一部となる」ということで、人間は変化をとらえたその時から、変化そのものとなって、何らかの行動をせずにはいられなくなるものです。

しかし残念ながらその行動は、変化を否定したい人々、変化したくない人々によって、孤立させられてしまいます。「変化に気付く人・変化に飛び込む人・変化そのものの一部となる人」が、ある一定以上の数になるまでは。そう、不動のようにも見えていた現代社会という名の大きな物語(現実)は、ここにきて誰にとっても「どっちに展開してゆくのか、分からなくなってきています」。まるで時代そのものが、「迷っている」かのようです。当然のことながら、その物語の中で舞台に立ち、役を得ていたはずの人々・台本通りに生きていた人々も、どう立ち回ったら良いのか、分からなくなってきています。

迷っている物語自体が(膨大な数の人々によって支えられていたとはいえ)、本来「架空のもの」なのですから、依然としてその迷っている物語の中で居場所を見つけようとしていたなら、当然自分自身も迷いという架空の物語の中を生きることになってしまいます。

考えてもみて下さい。子供の頃、周囲には「社会の物語・大人や親の物語」がありましたが、皆さんは自分たちの「子供の物語」の中を、生きていたでしょう。時々大人が押しつけてくる物語よりも、自分たちにとっては現実味があって、大事な「それぞれの物語・子供たちの現実」…それはつまり、皆さんは子供の頃、「自分を取り巻く物語はさておき、自分たちも物語を描いていた」ということです。

物語を描くということは、「世間とは関係なく生きる」「周囲の人々とかけ離れた現実を生きる」という意味ではありません。世の中には様々な物語が同時進行しており、全ての物語が関わり合っているのですから。たとえば、都市の物語と田舎の物語、人間の物語と野生動物たちの物語は、同時進行していますね。しかし、都会の物語が田舎の物語を侵食し、人間の物語が野生動物たちの物語を侵食し、そこに一つの物語しかないようにな錯覚に陥ってしまったら、どうなるでしょう。一つの物語(現実)だけがあるような錯覚に陥らず、自らの物語を描く力も見失わないことが、大切なのです。

これからの僕たちに必要なのは、「先を見ようとする」ことではなく、ましてや「どうなるのか誰かに尋ねる」ことでもなく、「自ら先を描こうとする」こと。

大人の中に自分の居場所を探そうとするだけの子供が、どれだけ「生き生きできなくなるか」ご想像下さい。言われるままにしか描けなくなった子供の絵は、どんな絵になるでしょう。自分が何色を塗ればいいのか、尋ねてばかりいる子供の絵は、どんな絵でしょう。誰かの絵に色を重ねることしかできなくなった生き方・指示された色しか塗れなくなった生き方になってしまったら、なんだか残念ですよね。

色を重ねてゆくのは僕たち、それぞれが絵を描くことができます。その絵が全体で見た時に、どんな巨大な絵になるのかは、まだ誰にも分からないのです。だから、尋ねても意味はありません。それぞれの人が、自分が描きたいようにしか答えてくれないし、そのようにしか答えようがないのです。

だから、変化を感じたり、変化を見て取ったならば、いつでも遅いと思わないで、その瞬間から「自分もその変化の中にいる=つまり自分もその変化の一部」なんだと認識し、どんな世の中を描きたいか想い描き、自ら描く側になりましょう!

つづく

報告②『伝わりゃイイってもんでも、ないかもね!』

第一回エハン塾文化編「時代は開くことになりました!」では、会場の方々からも率直な意見や質問が飛び出しました。報告編②からは二回ほどに分けて、会場の方々との対話に少しばかりの補足をしてみたいと思います。ご興味のある方は、YouTubeでの収録映像(録画安定版1~4)も、ご参照下さい。

※ご意見・ご質問は(全て記載すると長くなるので)実際のものから簡略化・意訳しています。


◆「言葉(日本語)の間違った使い方」って、どんなこと?

これは、これから度々触れることになるトピックですね。僕たちは、一人で思考する時も、誰かと会話する時も、「特に意識しないで(注意を払わないで)」言葉を使っています。でもその「言葉」の、一つ一つに対する認識を深めることが、僕たちの思考や会話を「生まれ変わらせる」ことになるのだとしたら…

「自分を変えたい・今の暮らしを変えたい・このままではいけない気がする」、そんな想いをお持ちの方は多いと思いますが、「具体的に何からスタートすればいいのか、何ができるのか、ピンと来ない」という方も多いのではないでしょうか。

「普段使っている言葉を見直すこと」「言葉や言語表現に対する認識を深めること」。言葉は僕たちにとって「最も近くにある道具」の一つですから、その道具についてより知ろうとすることは、普段僕たちが「どのようにして思考を形作り、どのようにして関係を形作っているのか」を知ることでもあります。言葉は誰にとっても身近なものですから、この方法は誰にとってもスタートしやすく、大きな力を発揮するのです。

実際僕たちは、普段使っている言葉の「本来の意味や成り立ち」を、ほとんど知りません。多くの人々は「一つ一つの言葉について、知った上で使っている」のではなく、「それぞれの言葉を、どんな時にどんな風に使えば会話ができるのか、知っているだけ」なのです。僕たちは子供の頃から、周囲の人々が使う言葉や言語表現を耳にしながら、「その使い方を、真似してきただけ」なのです。でもその使い方が、根本的に間違っていたとしたら、どうでしょうか。

「使っている道具について知らないまま、その道具を使って何かを作り続けている」というのは、考えてみたら少々危なっかしいことです。たとえば子供の頃、周囲の人たちがノコギリで料理を作っていたからといって、自分もそれを真似てノコギリで料理を作るようになったら、料理はどんな風になるでしょう。周囲のみんなが当たり前のようにノコギリで料理していたら、「料理が何だかおかしいぞ」ということにも気付きにくいし、「ノコギリは料理の道具ではない」ということにも、気付けないかも知れませんね。ましてやそれが何世代にも渡ると、いつの間にか「料理はこういうもんだ」ということになって、もはや疑問も湧きにくくなります。

だからこそ「言葉の使い方を見直す」ことは、必要でもあります。知らない間に、何世代にも渡って、ノコギリで作る料理のようなものを、料理と思い込んできたのかも知れないのですから。

僕たちは、自分に関わる重要な言葉まで、「あやふや」なまま、使っています。たとえば「心、気持ち、意識、精神、考え、思い(想い)」。「自分・自我・自信・自由・自然」といった、「自」を含む言葉についても、意味や成り立ちを知って使っている人は、どれだけいるでしょう。明治以降、外国語に当てはめて使われるようになった日本語には、本来の意味とズレたまま使われているものが多く、中には全く異なる意味で使われ続けている言葉もあります。

「元の意味と違っていたって、今伝えたいことが伝えられていて、それがお互いに通じていたら、別にそれでいいじゃないか」という方も、おられるかも知れません。

「伝える・伝えない/通じる・通じない」ばかりに注目するのが、現代社会です。「知らないで使われる言葉」や「あやふやなままで使われる言葉」が、僕たち一人一人の「個人の中」で、「何を作ってしまっているのか」の方が、よっぽど重要なのです。そしてそれらを使うことによって、僕たち一人一人が「社会の中」で、「何を行き交わせているのか」に注目しないと、僕たちの社会が抱えている問題の根源は見えてきません。

伝えるとか通じるということが、一番重要なことではないのです。今の社会では、個人個人が作り上げている「思い込み」や「勘違い」、「妄想」や「不安」が、互いに伝えられ通じ合い、行き交っているのですから。

言うまでもなく、言葉は「それが指している対象そのもの」ではありません。互いの間でその対象を表し、互いの間でその「イメージ」を共有するための、便宜上の音や形…つまり記号でしかありません。山という言葉は、山そのものではありませんし、その言葉によって想起される山のイメージも、本当は人それぞれでしょう。それらは「それぞれの個人の内で描かれたイメージ」であって、「山そのもの」ではありません。

しかし人間は、言葉という記号を使って会話というやり取りをしながら、「ほぼ同じイメージを互いに交わすことができている」と思い込み、「ほぼ同じようなイメージを互いに共有できている」と思い込み、そしていつの間にか、自分たちによって共有されている(と思い込んでいる)イメージが、「山そのもの」であるかのような錯覚を抱くようになるのです。「山そのもの」よりも、自分たちの間でイメージが「伝わった」り「通じた」りする(と思われる)ことの方が、自分たちにとって重要であるかのような、勘違いをしてしまうのですね。

つまり、Cさんのことを話すAさんとBさんの間では、「Cさんそのもの」よりも、AさんBさんが勝手に描くCさんのイメージ(たとえば噂や悪口など)が、AさんとBさんの間で通じることの方が、重要であるかのようになってしまうのです。こうして言葉や会話は、「伝わったらいい」「通じたらいい」と思った瞬間、実存と妄想の逆転現象を引き起こし、「妄想であっても幻想であっても、誰かと共有できていると思えれば、それが実存・真実であるかのようにして行為に及んでしまう」…そんな人間の安直で危険な一面を、社会のアチコチで浮上させてしまうのです。

だからこそ、意味や成り立ちを知らないままで使われる言葉、深く考えないで交わされる言語表現は、本質的に「呪い」として機能してしまう場合が多いのです。それらの言葉や言語表現、それによって形作られている思い込みや妄想は、「知らず知らずのうちに」、相手や自分に作用し、相手や自分の思考・行動を、制限してしまうからです。

「そんなことしてたら、そのうち後悔するよ」「きっと泣きを見る」「そんなの無理に決まってる」「あなたのような人は…だ」等は、その代表格かも知れませんが、良い意味のように聞こえる表現や、褒め言葉なども、呪いの機能を持っていますね。たとえば「Aちゃんはすごいね、…になれるんじゃない?」等の、「良い意味だけど無責任な」持ち上げ表現等がそうです。その表現の向こう側にある呪いの機能を、本能的に察知するからこそ、「いやいや」と否定したくもなる人もいる訳で、それはその人が謙虚であるとか、ヒネているということではないのです。他者が「勝手に・安直に描いたイメージ」を、自分に投げかけてきたり、共有させようとしたりすることに、賢明な人は慎重になるということです。

他者が描くイメージ・決めつけたイメージを、自分自身のこととして受け取ることにより、そのイメージの周りを周回してしまう思考回路が、受け取った人の頭の中には自動的に作られてしまうのです。バカじゃないの・ダメだ・使えない・うざい・キモい・変なの・意味不明・暗い・弱い・情けない・子供ね…なんていうのもそうですが、すごい・才能あるね・素質あるね・天才じゃないの・賢いね・優しいね・強いね・かっこいい・若い・大人じゃん・男らしい…全てが「呪術的なはたらき」を持っています。

呪いには自覚しているものもあれば、無自覚なものもあり、ほとんどの場合、人々は無自覚に「相手にも自分にも呪いをかけてしまう」ものです。「呪いなんて、太古の昔のことだ」なんて思っている方もおられるかも知れませんが、実際、現代社会でも相変わらず呪いは行き交っています。

たとえば「自分に負けるな」等は、あまりにも便利使いされている言語表現ですが、自分という言葉に関しても、勝ち負けという言語表現に関しても、あまり考えないまま使っている人が多いですね。使っている人を目にして、その「使い方」だけを学習してしまうからです。「自」「分」を、更に「強い自分」や「弱い自分」、「ポジティブな自分」や「ネガティブな自分」、「愛されるべき自分」や「ダメな自分」に分け、そこで勝ち負けを創り出そうとしている人は、小さな「自分」の中で、一体何のゲームをしているのでしょうか。

「使い慣れている言語表現」「慣れ親しんでいる、便利な言い回し」ほど、要注意です。それらは、本来の意味を離れて機能しているものがほとんどだからです。使っているものから自由にならずして、自由にはなり得ません。言葉や言語表現を意識せずに使っている人々は、(自分自身や相手の)言葉や言語表現に、踊らされてもいるということです。

また多くの人々は、言語表現に含まれているトリックについて、あまり日頃気にしていません。たとえば「目的・手段」「勝ち・負け」「自信がある・ない」といった言葉表現は、セットになり、対義語のように使われています。しかし実はそれらは、「対していない」のです(これらについては、後の講座で話が出ると思います)。対していないものを、対しているかのように使い続けたら、僕たちの思考・互いの関係・僕たちをとりまく社会環境は、どのようなものになるでしょう。

自覚していようが、していなかろうが、言葉・言語をはじめとする表現は、僕たちの思考・関係・社会環境を、文字通り創造しています。「そのことを認識しないまま、使い続ける」ということ、それ自体が、本当は言葉の間違った使い方なのかも知れません。言葉という道具を見直し、使い方を変えることは、そのまま、個人の「創造力」や、社会の「創造力」を、生まれ変わらせることでもあるのではないでしょうか。

報告①『今の自分の状態で出てくる答えなんて…本当の答えじゃないかもね!』

エハン塾文化編スタートの日をはさみ、九州では大きな災害が起こりました。被災地の方々に一刻も早く安らぎが訪れますよう、全ての選択が人命第一で為されますよう、祈念致します。

★『時代は開くことになりました』第一弾は、無事終了致しました。お越し頂いた皆さま、有難うございます。これから何回かに分けて、この“報告編”で4月15日初回のご報告をさせて頂きます。…結構、長いです(笑)

さて…今回の講義(対談)、午前・午後の4つの時間は、それぞれ①「時代は開くことになりましたってどういうこと?」②「私たちの関係を一変させる、先人たちからの暗号」③「“ICI”とは~直感・創造力・独立性」④「感じることが世界を変える~文化とは何か?」と名付けられておりましたが、其々の中身に関しては特に決めないで、「当日のその場の空気」で進めよう、ということになっておりました。

そのため、4本の木の間を鳥が飛びまわるように…4つのテーマの間をエハンさんと僕でピョイピョイと飛びまわる、ある意味春らしい?対談になりました。お越し下さった皆さんとのやり取りも含め、対談はとても楽しいものでしたが、僕個人的には反省点も多々ありました。

講演や講義などを一人でやる時は、会場の大半の方が内容を呑み込めるよう、一つ一つのトピックについて、丁寧に時間をかけて話してゆくのですが、今回は対談…しかも対談の相手は、あれこれ言わなくても、すぐに「ピ~ン」と来ちゃうエハンさん。会場にお越しの皆さんがいることを前提に話は進めていましたが、二人の間ではすぐに通じてしまう事もあり、後から考えたら「大事なことを言わないまま、説明しきらないまま、話を進めてしまったかも」という反省が、僕にはありました。エハンさん、みなさん、ごめんなさい(><)!対談という中で、一つ一つのトピックを「結んでゆく」ことは、簡単ではありませんね~。

さて、少し不思議な話かも知れませんが…僕の中に、幾つものスイッチ・ボタンがあるとします。それらは、話題・知識・情報のボタンで、Aについての話題、Bについての知識、Cについての情報…といった具合に、無数に分かれて並んでいる訳です。誰かと向かい合うと、その人から「見えない手」が何本も僕の方に伸びてきて、ボタンがどんどん押されていきます。すると僕は自動装置のように、それぞれの話を喋っていく。

ボタンを押す人は、自分が「知りたい」ことが何かを、実は潜在的には「既に知っており」、その知りたいことに通じる可能性がある話題・知識・情報を持っている人に会うと、特に「自覚しないで」、見えない手をその人のボタンに向かって伸ばすのです。だから「わざわざ声に出して質問した訳でもないのに」、目の前の人が「自分が興味を持っていたようなこと」を喋り出す…というような現象が起きるのですね。

ところが、あのような大勢の人が集まる場・しかも普遍的なテーマを扱う場では、「ボタンを押す見えない手」は、あちらこちらから伸びて折り重なり合い、複雑な軌跡を描きながら、その場を行き交います。そこに居る人数よりもずっと多い「見えない手」が、僕やエハンさんの間でも、僕やエハンさんに向かっても、伸びている。

自分がなぜ、そのことを話し始めたのか…どこの誰から伸びてきた手が、ボタンを押したのか…一体幾つ同時に押されているのか。いちいち考えられないくらい、次から次へと押されてゆくような感覚の中で、まるでその場が巨大な一つの脳になって、その中で電気信号が行き交い、シナプスがつながっていくのを、脳の中の一つの細胞からリアルタイムで観察しているみたいになりました。

会場には、知識欲が旺盛な人々が集まっていたのかも知れません。終わった瞬間、僕が「知っていること」や、僕という人間を形成している個人的経験については、幾つか話したものの…「その知識・経験によって僕が持ち得ているアイディア」のようなものについては、皆さんにあまり提供できないまま終わってしまったような印象がありました。実はそういう話をしそうになった際、別のボタンの方が連打されているような感覚がずっとしていたからです。「音楽の話」や「ことばのカラクリ」と言えるものについては、ほとんど触れませんでしたが、これはまた、別の機会にしろということなのかな、と思っております。

また、言葉というのは常に普遍的な状態に在るものではなく、会話する人間たちの意識状態によって意味が変わったり、意味を為さなくなったり、場合によっては特定の言葉に関しては、使う必要がなくなったりもします。多くの人々がいる所で話す時は、その場にいる人々の意識状態の、「平均値」「最大共有域」に合わせて、言葉が選ばれたりするのです。つまり、特定の二人が二人だけで話す時と、そこに他の誰かがいる時で、選ばれる言葉も、その言葉の意味も、その言葉の深度も、変わってくるということですね。むしろそれが自然と言えるかも知れません。

人が集まる際、大体近い意識状態の人々が集まることが多く、その場合、言葉はむしろ選びやすいものなのですが、今回のこの文化編、興味深いことに「普段、疑問に感じていること」や「求めている知識」が、とても近い人々が集まっているものの、会場の意識状態は様々で、その幅は、僕の経験的にも大きいように感じました。そのため、言葉を選ぶのには少し難しさを感じていました。

それにしても、エハンさんの旅の話や、冒険談・体験談は、まだまだ面白そうでしたね!文化というのは、人間一人一人の内で培われてきたものであり、その人の経験、生きている環境や地域、普段の暮らしや時間の過ごし方、人間関係が、「映し出されているもの」です。その人を「より知る」ことで、その人の言葉も「より意味を為してくる」ものですね。文化力とは、「映し出されているもの」を通じて、「そこに何が映し出されているかを読み解くこと」でもあると思います。


ところで皆さんにとって、「講演」や「講義」に行く意味とは何でしょう?「情報や知識を得たい」というだけなら、分かりやすく整理されてまとめられた文章や本を、自分のペースで読む方が良いのかも知れませんし、今回のような企画なら、後で映像を見たりもできますから、シンプルに「情報や知識を得たい」というだけなら、わざわざお金を払って講演や講義に出向かなくても良いのかも知れません。

僕は「講演や講義に行く」というのはズバリ、「人に直に会う」「その空気に触れる・含まれる」ということではないか、と思います。「文言による知の経験」だけではなく、「身体全体を通した知の経験」。旅行雑誌の写真や映像を眺めるのと、実際にその空気の中に行くことは、おそらく想像する以上の違いがあります。コンサートと録音物などもそうでしょうね。実際の絵画と、それらが小さく印刷された図録を見るのも、随分異なります。

また、「新しい情報」や「知識」、何か「ヒントや答え」のようなものを求めて、こういった講演に来られる方もおられるでしょう。当日参加費を払って来られる方には、それなりの満足や納得、成果や手応えを持って帰って頂けることも大切だと思います。しかし一方で皆さんご存知の通り、エハン塾は普段から「答えを求めるのではなく、自分で考える」ことを提案し、「全ての人々を消費者にしてしまう、現代社会のシステムに対するアンチテーゼ」を発してもいます。エハンさん自身、禅の公案か謎かけのようにして、様々な問題提起をされたりもします。その中には実は、「今の自分の状態で、簡単に答えを出すな」というメッセージもあるのではないでしょうか。

その場で何らかの結論や答えが「提供」され、「持ち帰る」ことができないと、「買い物した気になれない」人もいるかも知れません。「思うようなもの」が得られなければ、「得したと思えない」人も多いかも知れません。しかしこの社会の「習わし」の中で意味や価値を高めようとして、「答えのようなものを提供」し、「満足を与えようとする」ことで、このような講演が結局、「依存促進」や「思考停止」、「消費的習慣の持続」を導くものになってしまったら、それこそ矛盾、それこそ残念ですよね。

だから…

すぐ出てくる答なんて、答じゃないかもよ!
これが答えですなんて言われても、有り難がってる場合じゃないかもよ!
何じゃこりゃ、と思うものの向こう側に、導かれている世界があるかもよ!

という訳で。

「この社会」の中で発案され、「この社会」で企画運営されていながら、それでも「商売でもなく」「サービスでもなく」、出会った人々が様々なことを考え始め、多くの引っ掛かりや、場合によってはモヤモヤまでもを持ち帰り、そしてまたお互いに会いたくなるような、そんな面白い「会合」…そんな文化を、「つくって」ゆきたいものですね!

つづく

『観客席は、ない!』

想像してみて下さい…大きなスタジアムで、野球の観戦中。

どうやらみんなが観に来る試合。チケット買って入場したから、試合を見物するのは当然の権利。受付でやってたサポーター・テストで点数が良かったので、なんと指定席ゲット。スタジアム中央で繰り広げられるのは、試合という名のドラマ。そこに登場するのは、選ばれた選手たち。試合を眺めながら、歓声を上げたり、ヤジを飛ばしたり、隣の人と喋ったり。自分のところにボールが飛んでくるような「思わぬアクシデント」が起こらない限り、観客席では高見の見物。観客席は見渡す限りの人、人、人。試合が停滞してきたら退屈だけど、適当に興味をそらしつつ、試合が盛り上がってきたら、再びフィールドに注目。みんなでワーワー盛り上がれたら何だか楽しい。

この巨大スタジアム、実は出口が閉じられてて、観客たちは、入った瞬間自覚のないまま「観客であることを選んでしまった」人々、だけど自分たちと同じような人が多くいれば、特に疑問も湧かない人々。座席番号を渡されフィールドから距離のある、安全なはずの観客席に座れば、あとは試合を待つばかり。多少の優越感を感じられる指定席、そのほかの自由席…いずれにせよ、そこが自分の場所となれば、そこだけが自分の場所だから、取られないように注意。試合に熱中してきたら、スタジアムの外のことなんて、すっかり忘却の彼方。「権利を満たしている」つもりで自分の席に座ってたら、瞬く間に時が経ち、見せられるままに試合を見て、ただ試合に反応し続け、やがて気が付いた頃には「ただの傍観者」として、人生が終了。観客という配役は幾らでも代わりがいる。空いた席には、新しく次の人が座り、何事もなかったかのように、試合は続く。何百年も、何千年も。人はどんどん変わっても、スタジアムの風景は、変わらない。

…なんか、こわい!

でも大丈夫。そんな妄想スタジアム、興味がなければ入らなければいいのです。入らなければ、ないのと同じです。皆さんは、ないはずの観客席に居座り、社会の出来事をただ眺めるようにして人生を送ってはいませんか?歓声をあげたり、ヤジを飛ばしたり、話題にしたりして隣の人と盛り上がったりしながら…無責任にも世の中を見下ろせる場所にいるような錯覚には陥っていませんか?眺めてる試合に、最初から参加もできない立場を自分で選んだのに、そのことに一向に気付かないまま人生を送ってはいませんか?自分たちの損得に関わらない限り、見えることの大半をスル―できる「高見の見物」を決め込んだつもりが、いつの間にか「誰かが見せたいように、見せている」ことを見せられて、それらに「反応するだけのような日々」を過ごしてはいませんか?沢山の人たちと共通の話題で盛り上がっていられたら、何となく疑問なく毎日が過ぎてゆくような気にはなっていませんか?

ご注意下さい。人類の長き歴史が誇る「あるはずのない妄想スタジアム」に、膨大な数の人々が迷い込んでしまっているかも知れません。目の前で繰り広げられる「数千年続く歴史あるゲーム」は、あの手この手で気を引こうとしますから、気を取られてるうちに「ただの傍観者」のようになって人生を終えることになったら、それこそ大変。本当は、「この世界には観客席はない」のです。自分の席だと思い込まされ、うっかり座ってしまった席から、ヒョイッと立ち上がりましょう、なんせ「時代は開くことになったのですから」!

★予告編ブログ5回目。いよいよ文化編開始の日が近づいて参りました。

さて、この世界・この社会には、全ての人間が認めざるを得ない、ただ一つの「現実」がある…そんな風に思っていませんか?人間が、みんなで共有している、客観的で、疑いようがなく、逃れようもない、ただ一つの現実。そんなものがあると思いますか?

現実という言葉を、今日から「物語」という言葉に置き換えてみましょう。会社という物語、競争社会という物語、ビジネスという物語、成功と失敗という物語、子育てという物語、ご近所付き合いという物語、受験という物語、生存競争という物語、パワーゲームという物語、戦争という物語、陰謀という物語、経済という物語、現代という物語…

それらの物語が「どれほど目の前で大きく見えていたとしても」、それがこの世界で展開している「唯一の物語ではありません」。その大きな物語は、膨大な数の人々が共同で描いている、一つの大きな絵画のようなものです。その共同作業に参加し、一緒に描くのに熱中していると、まるで世界のほぼ全ての人が参加しているような錯覚に陥り、更に他の人を巻き込もうとしてしまいます。「物語」は大きくなると、一種の独立した生命のようになって、「描いている者たちを使って、より大きくなろうとする」のです。

スタジアムでの試合に歓声を上げている間・ボールの行方ばかり追いかけている間、人間はボールの行方や試合の推移以外に、そこで「膨大な数の物語が同時進行している」ことに、気が付けなくなります。たとえば歴史も、決して「一本の線」ではありません。膨大な数の線が、様々な人間の様々な選択が、見える所でも見えない所でも絡み合って交錯してゆくのです。たまたま「見えやすくなっている一本の線」も、それを取り囲む膨大な数の線がなければ、生じ得ないのです。ですから、僕たちが「見ている現実」も「知り得る歴史」も、言葉の通りの現実や歴史ではないのです。真実は一つではなく、「把握できないほど多くの事実が、絡み合い、うねり合いながら、同時進行している」ということが、真実なのです。

長い年月をかけて巨大化した一つの物語が、目の前に立ちはだかっていたとしても…膨大な数の人間がその共同作業に参加しているように見えたとしても、この世界で展開している物語は、それ一つだけではありません。僕たちは「幾つもの物語を生きる力」を持つ生命であるばかりか、「新しい物語を毎瞬この世界に描き加えることができる生命」なのです。この、物語を描く力こそが文化力でもあるし、目の前の物語をひも解く力も文化力なのです。文化力とは、本質的な豊かさを創造する力、ということも出来るでしょう。

それではみなさん、15日にお会いしましょう!

『カッコ良く見える人のほとんどは、実はカッコつけてるだけなの!』

この社会に暮らす大半の人々は、「だまされたくない」「損したくない」と、日頃から強~く思っています。でも、初めて聞く情報や新しい事実、聞いたことのないアイディアなどに出会った時…『眉をしかめ腕組みをし、「え~っ!?/あやしい!/聞いたことないぞ!」と“反射的に”拒絶反応を示し、警戒し遠ざけようとする人』と、『とりあえず近づき、「どういうこと?/なんでなの?」と、疑ったり検証したりして吟味しようとする人』は、頭の中が全く異なります。

否定や拒絶反応が、いきなり“反射的に”出てしまう人々は、元々「だまされやすくて、損しやすい思考パターン」を持っているのです。考え始めると、思考の軸を失い「自分自身が揺らいでしまう」可能性が高く、実は「だまされやすい・流されやすい」とこがあるのを、心のどこかで自覚しているからこそ、「そもそも考え始めないように」最初から出会う情報をパターン的に判別・識別し、反射的に「はね返す」よう、自身を“初期設定”しているのです。

厄介なことに、隣の人たちも同じように“反射的に”反応してたら、「そうそう、みんなもそうだよね」って安心してしまい、自分の中の“初期設定”には疑問も抱かなくなってしまいます。この社会には「周囲と同じように見えたら、とりあえず安心して思考を一旦停止してしまう」という習慣があるからです。たとえ自分の中に疑問や違和感が湧いても、「自分だけ」のように思えたら、表現せずに押し込めてしまう…これもよくある反応で、どんな反応であっても多数の人々と共有できたら、人間はとりあえず安心してしまうものです。だからこの社会は「ほぼ自動的に」、ごく一部の「特殊な立場の人々」と、「その他大多数の人々」に、分かれてしまうのです。

この“初期設定”、「決まったところからの情報は、どんどんインプット」してしまうのに、それ以外のところからの情報は「外部情報」として、即座にシャットアウトしてしまいます。この「外部情報への過剰な反応」によって注意を外に向け、“自分の内部状態をあやしむことが出来ないよう、巧妙にプログラミングされている”のです。これって、パソコン・メールの受信設定をウィルス対策で厳しくし過ぎて、あるところからのメールはどんどん届くのに、それ以外のところからの重要なメールは、入り口でガードされて全然届かなくなっている…という状態と、ほぼ同じと言えるでしょう。

一方、「だまされにくく、損しにくい思考」を普段から持っている人なら、新しい情報や事実、聞いたことのないアイディアに出会っても、むしろ好奇心たっぷりに覗き込むはずです。強い武道家が、どんな人から試合を申し込まれても「よっしゃ」と引き受けるみたいに。まずは近づかないと、本当の意味で「疑ったり検証したりする」ことも出来ませんし、考えることを面倒に思っていない人ならば、「だまされたらどうしよう・損したらどうしよう」なんて、自分で確かめたり考え始めたりする前に、思ったりしません。

そんな人が沢山いたら、世の中はもっと急速に変化を遂げていたかも知れません。社会の階層は引っくり返っていたかも知れませんし、ある人たちは手放したくないであろう立場や利権を手放さざるを得なかったかも知れません。でも世の中はまだまだ相変わらずのようですから…もしかしたら世の中の大半を占める「“反射的に”反応してしまう人々」は、「だまされたり損したり」しないよう気を付けているつもりが、実は既に「だまされてしまっている」のかも知れません。

ところで…まだ幼い精神の女の子たちは、しばしば、不良っぽくしてる男の子やカッコつけている男の子を見ると、「カッコいい~」と胸キュンしちゃうそうです。幼い精神の男の子たちが、キレイにメイクして流行のポーズをキメてる女の子を見ると、「超カワイイ~」と胸キュンしちゃうのと同じですね。この年頃の子供たちは、自信たっぷりに行動する人を見たら「すご~い、自信あるんだ」と思っちゃうし、偉そうに振る舞う人を見たら「きっと偉い人なんだ~」と思っちゃいます。つまり、「カッコ良く見せようとしている人を見て、カッコいいと思ってしまう年頃」なのです。でも、みんなが大人になってもそんな調子じゃ、まずいですね。この社会が、中学校の教室みたいになってしまいます。

ホントはね…

カッコ良く見える人は、そう思ってもらおうとして「カッコつけてる」だけで、実は「そうしてること自体、そんなにカッコ良いことじゃない」の!自信ありそうに見える人は、自信あると思い込んで、そのように振る舞ってるだけで、実は単に自分がわかってないだけなの!賢そうに見える人は、賢いね~って言われたことがあるから自分でも賢いと勘違いしちゃっただけで、本当はそれほど賢くもないの!何でも知ってるように見える人だって、別に何でも知ってる訳じゃないの!個性が強そうに見える人が、案外中身はフツーだったりするの!芸術家みたいな顔してる人が、頭の中は自己承認欲求でエゴのかたまりだったりするの!スピリチュアルでサイキックに見える人の頭の中が、実はとりとめのないコンプレックスで詰まってたりするの!カウンセリングしてる人が、本当はカウンセリングが必要なタイプだったりするの!

偉そうに見える人は、「偉そうにしてたら皆がビビっちゃう」のを知ってて、そう振る舞ってるだけで、ホントは全然偉くなかったりするの!強そうに見える人も、強がってるだけで、本当は中身は弱っち~かったりするの!大人みたいに見えても、中身は未熟な子供だったりするの!クールに見えても、そう振る舞ってるだけの人がほとんどなの!まじめで優しそうに見える人が、実は嫌われるのを怖がってるだけの人だったりするの!みんなが賛同しているように見えたとしても、本当にそうとは限らないの!本当のことのように世の中に広まってることが、本当のことを隠すためだったりするの!みんなが「それ」を信じてるように見えても、実際には信じ込まされてるだけで、本当はほとんどの人が「他の事実を知らない」だけなの!「オレはだまされないぞ」って言って腕組みしてる人が、既に頭の先から足の先まで、だまされてたりするの!

スゴそうに「見える」ものや、「みんながスゴいって言う」ものに出会っても、物怖(ものお)じすることはありません。「そう見せよう」としてくるものがあっても、「そう見ようとしなくてもいい」のです。まっすぐ感じてみましょう、そしてじっくり考えて、素直に表現してみましょう。共有なんてしなくてイイじゃないですか、分かってもらえないことなんか、恐れなくていいじゃないですか。何といっても「時代は開くことになったのですから」!

★ブログ4回目…開催まで10日を切り、このブログもどこからどこまでが前置きなのか、わからなくなってきましたね…

どんな人の頭の中にも、多かれ少なかれ「権威主義」が浸透しています。特にこの社会の人々は、「みんなが知ってる」ように見えるものや、「みんながスゴイと思ってる」ように見えるものに、極度にヨワイのです。そういうものには無邪気に目を向け、「すごい、アレだよ!」と盛り上がり、「へへ~」と頭を下げ、簡単に「有り難いものだ」と思い込んでしまいます。でもその一方で、あまり知られていないものや、「お偉い」評論家や学者やセンセーや著名人たちの賛同やお墨付きがないものに対しては、特に目も向けず、場合によっては気も付かず、踏みつけて通り過ぎてしまいます。自分で価値判断が出来る人・物事の違いが分かる人は、あまりいないのです。

だから、多くの人々が「権威」の印を欲しがるのです。政治家も社長もセンセーも、芸術家も評論家も料理人も、医者も教祖も商売人も…それがあれば「とりあえず一定以上の価値を多くの人々に認めてもらえる」し、逆にそれがないと、場合によっては「存在していないかのように扱われる」からです。人々の権威主義に便乗して、ハッピーをつかもうとするのです。

独特で、自信ありげで、どれだけフツーじゃないように見えたとしても、「Aのように見せてたら、みんながAとして扱ってくれる」と考え、「Aらしく」振る舞っている人は…(その人をAと思い込んで、その通りに扱う多くの人々と同じく)案外フツーの頭の人なんです。世の中の大半を占めている、フツーの、権威主義信奉者なのです。

だからこの文化編でも、エハン先生とか、ましてや、タロー先生とか呼んだりしなくていいのです。エハンさん・タローさんでいいのです。政治家も(代議士っていうだけなんだから)、センセーなんて呼んじゃダメなんです。学生じゃなければ、相手が教授でも、ホントはセンセーって呼ばない方が良いのです。実際日本人は長い間、「先生という言葉を間違って使い続けている」のです。そうやって知らず知らずのうちに「魔術のかけあい」をやっているんです。この社会は、呪術や魔術と決して無縁ではなく、みんな「知らずに、使い続けている」のです。

プロフィール

きしもとタロー

Author:きしもとタロー
『時代は開くことになりました!』

このユニークな文化塾は、著述家で冒険家・意識研究家であるエハン・デラヴィと、音楽家で文化・意識に関する広範囲な研究を続けてきたきしもとタローの対談企画「エハン塾文化編」として、カクイチ研究所の協力のもと2016年春に京都でスタートしました。

2016年秋からは、京都・京北を拠点とするネットワークTETRADA(テトラーダ)の企画により、日常生活の洞察と互いの心・精神の成長、新しい社会の在り方と人間の創造性をテーマに、学びの場・出会いと対話の場として、改めてスタート…もちろん、エハン塾文化編もその一環に含まれる予定です。

尚、当ブログは、きしもとタローが執筆担当しております。イベント開催情報などはFacebookページの方も是非ご参照下さい。

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